【コラム】朱舜水が伝えた孔子像
東京の湯島聖堂に1体の孔子像があります。これは明の遺臣・朱舜水が中国から伝えたものといいます。では、なぜ湯島聖堂にこの孔子像があるのでしょうか。
九州の柳河藩に安東守約という儒官がいました。学問好きの彼は、27歳のとき京に上り、藤原惺窩の門人・松永尺五の下で学問を修めていました。1653年、病気治療のため京を離れ、長崎に行った彼は、明から帰化した潁川入徳(中国名は陳明徳)という医師と知り合います。そして、この医師から朱舜水という儒者がしばしば長崎を訪れていることを知ります。その後、江戸での修行を終え、柳河に戻った彼は、1659年、この医師を通じて一通の手紙を受け取ります。朱舜水からの手紙でした。いま長崎に来ているというのです。儒官である彼にとって、これは絶好の機会でした。本場の儒者から直接指導を受けることができるのです。翌年、彼はさっそく舜水のもとを訪ね、日本に留まるよう説得しました。そして同志と連署して長崎奉行に嘆願書を送り、舜水の在留を認めてもらったのです。「日本国の禁三十余年、唐人を留めず。弟を留めしは乃ち異数なり」後年、舜水がこう述懐しているように、まさに「異数」(異例)の計らいでした。
とはいえ、舜水には日本での生活基盤はありません。そこで守約は「禄を分かち、其の半ばを奉じ」て、舜水の生活を支えました。儒官といっても禄高は200石、四公六民で実収は80石でしたから、その半分を舜水に奉じたのでは、暮らしは楽ではありません。そのため「自ら奉ずるは敝衣、糲飯、菜羹のみにして、あるいは時に豊腆せしは鰯数枚のみ」1だったと、舜水は記しています。にもかかわらず、1663年、長崎で大火が起こったときには、焼け出された舜水のために新たな家を建てたといいますから、その献身ぶりが窺えます。
1664年、舜水は水戸藩主徳川光圀の招請を受け、翌65年、長崎を発って江戸に移ることになりました。出発の前、舜水は守約に3体の聖像を贈ったといいます。その中の1体は守約が開いた家塾に伝えられ、他の2体は守約の家(安東家)に伝えられました。家塾に伝えられた1体は、柳河藩の藩校伝習館を経て、その流れをくむ福岡県立伝習館高等学校に所蔵されています。安東家に伝えられた2体の中1体はいまも同家が所蔵していますが、もう1体は幕末に売り出され、藩の中を転々とした後、明治24年、皇室に献上されました。その後、昭和10年に湯島聖堂が再建された際、皇室から聖堂を管理する斯文会に下賜されました。これが湯島聖堂が所蔵する孔子像です。
▼朱舜水が中国から伝えたという3体の孔子像
左から湯島聖堂蔵、安東家蔵、伝習館高校蔵
2015年度柳川古文書館特別展より
注
- 1678年、日本にいる朱舜水を訪ねて、孫の朱毓仁が長崎を訪れました。高齢のため、長崎まで会いに行くことができなかった舜水は、毓仁に手紙を送りました。この手紙の中で、舜水は安東守約から受けた厚情をこう伝えています。
「日本は唐人の滞在を禁ずること既に四十年。先年、南京の七船が長崎に来た時、十九人の富商が連名で滞在を願ひ出たが何れも許さなかった。だから私も滞在しようとは思はなかったが、安東省菴が八方苦心して引き留め、あちこち人に頼んだ結果此処に留る様になった。特に私一人の為にきびしい禁制を解いたのである。省菴は自分の俸給の半分をさいて私に提供してくれた。彼は薄給二百石であるが実高は米八十石、半分を去ればたった四十石、しかも毎年二回私を長崎に見舞ってくれた。一回の費用は五十両、二回で百両、貧乏学者の俸給はこれでなくなってしまふ。その上、土地の物、季節の物を次々に送ってくる。そして自分は破れ着物に粗食で居る。時に御馳走といえば唯鰯数匹である。家には支那鍋―つ、長い間、煮物もしないので塵がおほい錆が生じている。親戚友人はそしり笑い、諫めて止めるけれど、省菴は平然として一向に心にかけない。ただ、日夜書を読んで道を楽しんでいる。私は此処に来て既に十五年、多少物を贈って謝意を表したがいつも受け取らない。あまりの頑固さに私も心楽しまないが、改めさせることも出来ない。こういふ人は我が中原にも多くはない。お前は名義を知らないが、どうか心に銘し骨に刻んで、世々忘れないでくれ。今、禁令がきびしくお前が出境して挨拶に行けないのは何としても心残りだが、如何とも致し難い。どうか書面で懇懇と謝意を述べてくれ。」(訳は山室三良「醇儒安東省菴」より)
関連年表
西暦 | 和暦 | 出来事 |
1592 | 文禄元 | 松永尺五、京に生まれる |
1598 | 慶長3 | 秋、藤原惺窩、赤松広通邸に姜沆を訪ね、釈奠について尋ねる |
1616 | 元和2 | 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定 |
1622 | 8 | 安東守約、柳川に生まれる |
1627 | 寛永4 | 陳明徳(潁川入徳)、長崎に渡来 |
1635 | 中国商船の入港を長崎一港に制限 | |
1648 | 松永尺五、京都の堀川で私塾を開く | |
1649 | 安東守約、京都に出て松永尺五の門下に入る(~1653) | |
1650 | 慶安3 | 黒川正直、長崎奉行に就任 |
1653 | 承応2 | 安東守約、病気治療のため、京都を離れ長崎へ |
1654 | 3 | 正月、朱舜水、長崎に来る(第5回) 安東守約、長崎の医邸で中国人医師の穎川入徳(陳明徳)と出会い、朱舜水の話を聞く 7月、修行のため江戸へ(~1656) |
1656 | 明暦2 | 安東守約、江戸から柳川に帰り、知行200石(俸禄80石≒80両)取りとなる |
1657 | 3 | 1月、林羅山没 6月、松永尺五没 安東守約、再び京都に出て伏原宣幸に学ぶ(~1658) |
1659 | 万治2 | 朱舜水、長崎に到着 |
1660 | 3 | 安東守約、長崎を訪れ、朱舜水に会う |
1661 | 寛文元 | 清朝が台湾の鄭氏政権対策として遷界令を発布 安東守約、朱舜水に俸禄の半ばをさいて奉仕する |
1662 | 2 | 5月、鄭成功が台湾で没する 11月、魯王が金門で没する |
1663 | 3 | 朱舜水、寛文長崎大火で寓居を焼失、安東守約が新居を建てる |
1664 | 4 | 徳川光圀の使者・小宅生順が長崎を訪れ、朱舜水に江戸に招く 黒川正直、長崎奉行を離任 |
1665 | 5 | 6月、朱舜水、長崎を出発 7月、朱舜水、江戸に到着 9月、朱舜水、水戸を訪ねる 12月、朱舜水、江戸に戻る |
1674 | 延宝2 | 6月、潁川入徳(陳明徳)没(長崎の春徳寺に安東守約が銘文を書いた「潁川入徳碑」あり) |
1678 | 6 | 12月、朱舜水の孫の朱毓仁が長崎に来訪 |
1682 | 天和2 | 4月、朱舜水没、常陸太田の瑞龍山に葬られる |
1683 | 9月、清軍が台湾に上陸し、鄭克塽は降伏(鄭氏政権滅亡) | |
1691 | 元禄4 | 将軍徳川綱吉、湯島聖堂を造営し、忍岡の先聖殿の聖像と四賢の像を新廟に移し、聖像を大成殿に安置して遷座奉告式を行う 林春常(鳳岡)、大学頭に任ぜられる(以後、林家がこれを世襲) |
1698 | 11 | 4月、雑司ヶ谷の薬園の移転に伴い、神農像を湯島に移し、祠堂を建てて安置する 9月、「勅額家事」で忍岡の旧廟が類焼し、廃絶 |
1699 | 12 | 11月、湯島聖堂の大成殿、御成御殿、学寮などが焼失(第一回) |
1701 | 元禄14 | 安東守約没 |
1704 | 宝永元 | 12月、湯島聖堂再建(第一回) |
1717 | 享保2 | 7月、将軍吉宗の命により、林家が湯島聖堂仰高門内東舎で四書の公開講義(仰高門日講)を開始 |
1718 | 3 | 9月、聖堂学舎に初めて林門以外の講師(木下順庵の養子寅亮、荻生徂徠の弟観)が加わる |
1723 | 8 | 2月、林信篤が大学頭を退職し、三男信充が大学頭を継ぐ |
1760 | 宝暦10 | 11月、荒廃した湯島聖堂を修復 |
1772 | 明和9 | 2月、明和の大火で湯島聖堂焼失(第二回) |
1774 | 3 | 5月、湯島聖堂再建(第二回) |
1786 | 天明6 | 正月、火事により湯島聖堂焼失(第三回) |
1787 | 7 | 正月、大学頭林信徴没、富田明親の二男が林信敬として大学頭となる(林羅山の血統が断絶) 9月、湯島聖堂再建(第三回) |
1790 | 寛政2 | 5月、老中首座松平定信が大学頭林信敬に門人の異学を禁じ、正学を極めるよう注意を促す(寛政異学の禁) |
1792 | 4 | 9月、湯島聖堂の庁堂で15歳以上の旗本・御家人を対象に初めて学問吟味を実施 |
1793 | 5 | 4月、大学頭林信敬没(林羅山の血統が再絶) 11月、15歳未満の直参子弟を対象に初めて素読吟味(童科)を実施 12月、幕府が美濃岩村藩主松平乗薀の第二子熊蔵に林家第八代を継がせ、林衡(述斎)と称して大学頭に |
1794 | 6 | 2月、学問吟味を再度実施(受験者237名に対し合格者19名)、以後3年ごとに実施 |
1797 | 9 | 2月、湯島聖堂の神農像を医学館に移す 12月、忍岡以来の林家の家塾とその塾生を廃し、湯島聖堂を旗本・御家人を教育する幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)に |
1798 | 10 | 3月、朱舜水が製作した孔子廟模型を参考に湯島聖堂の新廟の工事開始 |
1799 | 11 | 10月、湯島聖堂の新廟落成 |
1838 | 天保9 | 林衡(述斎)没、その子皝(樫宇)が大学頭に |
1868 | 明治元 | 6月、昌平坂学問所を学校と改称 |
1869 | 2 | 学校を大学と改め、旧幕府が創設した洋書調所・医学所を再興して開成学校・医学校に |
1871 | 4 | 7月、大学を廃して文部省を置く 9月、文部省博物局が設けられ、大成殿が博物館となる |
1872 | 5 | 3月、大成殿で文部省博物局主催の湯島聖堂博覧会が開催される 文部省が湯島から大手町に移転し、その跡地に師範学校が開設 |
1873 | 6 | 8月、東京以外に師範学校が設立されたのを受け、湯島の師範学校は東京師範学校と改称 |
1886 | 19 | 4月、師範学校令により、東京師範学校は東京高等師範学校に昇格 |
1903 | 36 | 東京高等師範学校が湯島から大塚に移転 |
1922 | 11 | 3月、湯島聖堂が国の史跡に指定される |
1923 | 12 | 9月、関東大震災で湯島聖堂は入徳門と水屋を除き、すべての建物が焼失、孔子像・四賢像も焼失(第四回) |
1935 | 昭和10 | 湯島聖堂に伊藤忠太設計によるコンクリート製の大成殿が再建(第四回)、朱舜水将来の孔子像が下賜される |
1975 | 50 | 台湾の台北ライオンズクラブから孔子像が寄贈される |
参考資料
- 松野一郎『西日本人物誌 6 安東省菴』(西日本新聞社 1995年)
- 安東省庵記念会編『安東省庵』(安東省庵記念会事務所 1913年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 山室三良「醇儒安東省菴」(『九州文化史研究所紀要』第13号 1968年3月)→九州大学学術情報リポジトリ
- 国立国会図書館デジタルコレクション 『聖堂物語 湯島聖堂略志』( )→
コメント