【コラム】饅頭の話

鈴木靖

 落語に「饅頭こわい」という咄があります。町内の若い衆がいつものように話に花を咲かせていると、いつしか話題は怖いものに。ヘビだ、クモだという中、辰さん(上方落語ではみっつぁん)は意外なものを挙げます。それはなんと饅頭。日ごろ辰さんに不満を抱くみんなは、辰さんを脅かそうと、山ほどの饅頭を買い込み、辰さんの家に投げ込みます。しばらくして、ようすを窺うと、辰さんは美味しそうに饅頭を頬張っています。騙されたと知ったみんなが、「お前が本当に怖いのは何だ」と聞くと、辰さんはすました顔で、「今度は渋いお茶が一杯」。
 この咄、実は中国から伝わったものです。百科事典などを引くと、明代の『五雑俎』や『笑府』を出典としていますが、そのルーツはもっと古く、宋代、日本でいえば平安時代の末に、葉夢得(一〇七七~一一四八)が書いた『避暑録話』という随筆集に、これとそっくりな話が載っています。お腹をすかせた貧乏書生が、「饅頭こわい」といって店の主人を騙し、饅頭をたいらげるという話で、「今度は渋いお茶を」というオチまで同じです。
 では、宋代の「饅頭」とはどういうものだったのでしょうか。北宋の都・汴京(現在の河南省開封市)の繁盛記である『東京夢華録』には、六月に町で売られる食べ物の一つとして「羊肉小饅頭」の名が見えます。いまの肉まんのようなものだったようです。中国は、秦嶺と淮河を結ぶ線によって、小麦や雑穀など主食とする北方と、米を主食とする南方に分かれます。汴京のような北方に暮らす人々にとって、「饅頭」は主食の一つ。米を主食とする日本人にとってのおにぎりのようなものだったのでしょう。
 ところが、これが日本に伝わると、饅頭はもっぱら甘いお菓子として売られるようになります。なぜなのでしょうか。
 日本に初めて「饅頭」の製法を伝えたのは、聖一国師円爾(1202-80)といわれています。仁治2年(1241)、宋での修行を終えて帰国した円爾は、博多での托鉢で出会った茶店の主人栗波吉右衛門に、中国で学んだ酒饅頭の製法を伝授したといいます。酒饅頭は、米や麹から作った酒種で生地を発酵させたものです。当時は「饅頭」を「十字」とも呼んでいました。これは中国晋代の宰相何曾の故事に因んだものです。円爾が修行した中国南方の浙江省では、いまも「金華饅頭」という酒饅頭が地元の伝統料理として伝えられています。
 それから百年後、室町時代の初めにも林浄因という人物が日本に「饅頭」を伝えています。貞和5年(1349)、日本の僧・龍山徳見禅師が44年ぶりに帰国することなりました。禅師を慕う林浄因は、禅師とともに日本に渡り、奈良で饅頭屋を開きました。彼の饅頭は、小豆の餡に甘葛煎(あまずらせん、ツタの樹液を煮詰めて作る古代の甘味料)でほのかな甘みをつけたものといわれ、奈良や京都の寺院のほか、宮中にも献上されて、大評判となりました。彼はその後、中国に帰国しましたが、日本に残った彼の子孫は京都にも店を開き、塩瀬の屋号で知られるようになりました。東京にはいまもその伝統を受け継ぐ塩瀬総本家があります。
 奈良の漢国神社(かんごうじんじゃ)には彼を奉る林神社があり、毎年4月19日には全国の製菓業者を集めて「饅頭まつり」が開かれています。
 円爾にせよ、林浄因にせよ、「饅頭」の製法を伝えたのは、仏教と関わりのある人たちでした。宗派によっては「肉食妻帯」さえ容認された日本の仏教界とは違い、彼らが中国から伝えた禅宗は、肉食を厳しく禁じていました。このため肉入りの「饅頭」など作るわけにはいかなかったのでしょう。
 こうして中国の貧乏書生が欲しがった肉まんは、日本に渡り、辰さん(みっつぁん)の大好きな甘い饅頭に姿を変えたのです。

漢國神社 林神社
〒630-8242 奈良市漢國町二番地林神社
https://kangou-jinja.jp/manju/
※日本に饅頭の製法を伝えた菓祖神(かそじん)林浄因命(りんじょういんのみこと)を奉る神社

参考資料

 

十字
 鎌倉時代の初め、源頼朝は富士の巻狩で長男の頼家がみごと鹿を射止めたのを喜び、山神に餅を供えて祭るとともに、家臣らに「十字」を与えたといいます1。この「十字」とは、蒸しパンのこと。中国で主食の一つとして食べられている「マントウ」のことです。
 「マントウ」のことをなぜ「十字」というのか、その由来については、江戸時代の学者伊勢貞丈が『貞丈雑記』の中で次のように説明しています。

 「十字」と云は餅(「マントウ」、以下の「蒸餅」も同じ――引用者)のこと也。『東鑑(あずまかがみ)』に「賜十字」、又「供十字」、又「食十字」などゝあるは、何(いずれ)も餅の異名也。昔晋朝に何曾と云人、字は穎孝と云、此人親に孝行にて行儀正しき人なりしが、奢侈者にて衣服、諸道具、飲食、皆花麗を尽せり。蒸餅を食するに、蒸餅の上に拆て、十字を作ざれば、食せざりしと也。此故事を以て、餅を十字と云也。拆て十字を作とは、餅の上に小刀めを十文字入て、くひよき様にしたゝめたるをいふ也。右何曾がことは『晋書』第十三巻めにみえたり。『蒙求』にもみえたり2

 晋の宰相であった何曾は、贅沢三昧な暮らしをし、「マントウ」も十字に割れていなければ食べなかった。日本で「マントウ」のことを「十字」と呼ぶのは、この何曾の故事に由来する、というのです。
 では、何曾はなぜ十字に割れた「マントウ」しか食べなかったのでしょうか。
 伊勢貞丈は「くひよき様に」(食べやすいように)といいますが、「マントウ」を割るくらい大した手間ではないでしょう。むしろ重要なのは、「マントウ」の風味に違いがあることです。ベーキングパウダーで膨らませる現在の「マントウ」と違い、酒種などで発酵させた当時の「マントウ」は、割れ目を入れておかないとすぐに萎んでしまいました。そこで、美味しい「マントウ」は、わざと十字に割れるように作り、収縮しても風味が落ちないようにしたのです。
 中国ではいまも十字の割れた「マントウ」が作られています。蒸し上げるとまるで花が咲いたように見えることから、「酒醸開花饅頭」と呼ばれています。美しいだけでなく、時間が経っても風味が落ちにくいそうです。

▼十字に割れた「マントウ」酒醸開花饅頭(浙江省)

注釈

  1. 『吾妻鏡』建久四年(1193)五月十六日
  2. 『貞丈雑記』巻六飲食

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