第13回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵

日中交流の史跡と文化
略奪放火を行う倭寇(『倭寇図巻』東京大学史料編纂所蔵より)

第13回 倭寇と秀吉の朝鮮出兵

 14から16世紀にかけて、中国の人びとの対日イメージは大きく悪化します。その原因となったのが、倭寇と秀吉の朝鮮出兵です。
 倭寇とは、日本を拠点とした武装集団で、中国や朝鮮半島の沿海部を襲っては、略奪を繰り返していました。東京大学史料編纂所が所蔵する『倭寇図巻』には、月代(さかやき)(丁髷(ちょんまげ)の原型)に日本刀を持った集団が、船団を組んで襲来し、略奪放火を行い、官軍に討伐されるまでの様子が生々しく描かれています。
 倭寇は、物だけでなく人も奪いました。『明史』によれば、1371年、当時九州一帯を治めていた南朝の懐良(かねよし)親王は、明からの倭寇取り締り要求に応じ、70余人もの被掠(ひりゃく)人(拉致被害者)を送還しています。
 明代(1368~1644年)の白話小説集『古今小説』には、こうした被掠人の1人、楊八老の数奇な運命を描いた「楊八老越国奇逢」という話が載っています。陝西の商人楊八老は、旅先の福建から帰郷する途中、倭寇に拉致されます。19年後、倭寇とともに中国に戻った楊八老は、官軍に捕らえられて処刑されそうになりますが、偶然再会した昔の下僕の証言で紹興府に送られ、そこで役人となっていた息子らと再会し、大団円となります。
 日本の能にも、祖慶官人という被掠人をシテとする「唐船」という曲があります。船争いで拉致された祖慶官人は、日本に送られ、九州の箱崎殿の下で牛馬の野飼をしていました。妻を娶り、2人の子どもがいましたが、13年後、中国の子どもたちが父を迎えに来ます。祖慶官人は帰国を許されますが、日本の子どもたちの同行は認められません。
祖慶官人は悲しみのあまり、自ら命を絶とうとしますが、親子の情に心打たれた箱崎殿の計(はか)らいで、日本の子どもたちとともに帰国が許されます。
 16世紀末には、豊臣秀吉が明の征服をめざし、朝鮮に出兵します。秀吉は、戦功の証として、明の兵士や朝鮮の人びとの鼻を削いで送るよう命じます。日本と朝鮮半島の関係史を研究する琴秉洞(クム ビョンドン)氏によれば、京都の東山に残る「耳塚(鼻塚)」には、10万人以上もの鼻や耳が埋められているといいます。
 こうした倭寇や秀吉の朝鮮出兵により、中国の人びとの心には、野蛮で残虐という負の対日イメージが生まれてしまったのです。


▼耳塚慰霊祭(2014年11月13日(木)撮影)

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