【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち

日中交流の史跡と文化
喎蘭(オランダ)人耳塚を観る(『都林泉名勝図会』巻之三、京都大学付属図書館蔵)

【コラム】耳塚に葬られた明の兵士たち

 秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮だけでなく、中国にも多大な被害を与えました。戦争にかかった費用は1,700万両余り1。当時の明朝の歳入は1,800万両余りといいますから2、歳入のほとんどが戦費に費やされたことになります。
 2度の出兵で戦地に送られた兵士の数は延べ166,700人、戦死者は1万人以上といいます3。戦死者の遺体からは戦功の証として鼻や耳が削ぎ落とされ、秀吉の派遣した軍目付が数を確認し、鼻請取状はなうけとりじょうを発行していました。この後、鼻や耳は樽に入れられ、塩や石灰で防腐処理された後、日本へ送られ、秀吉が京都方広寺に建てた大仏殿の前に埋められました。慶長の役に従軍した大河内秀元おおこうち ひでもとは『朝鮮物語』の中で当時のようすをこう記しています。
 「日本の軍勢十六万が討ったる朝鮮人の首数十八万五千七百三十八、大明人の首数二万九千十四、都て二十一万四千七百五十二、平安城の東なる大仏殿辺に、土中に築篭つきこめ、石塔を立てて、貴賎今に是を見る」
 大河内秀元は、軍目付の一人・太田一吉の家臣でしたから、こうした詳しい数を知る機会もあったのでしょう。みん人の数が戦死者数より多いのは、日本の武将たちが戦功を水増しするため、朝鮮の一般民衆を犠牲にしたからだといいます。
 こうしてできた塚は、いつしか耳塚と呼ばれるようになり、その悲惨な歴史を後世に伝えることになりました。江戸時代後期の1799年(寛政11)に刊行された京都の名所案内『都林泉名勝図会みやこりんせんめいしょうずえ』には、「豊氏の西征計策完り、凱旋す。曽て此に京観を築く。喎蘭オランダ入貢す太平の日、なお遠人をして肝胆を寒けさしむ」と、耳塚を訪れたオランダ人の驚くさまが描かれています。(松井亜唯里)

大河内秀元『朝鮮物語』巻之下

注釈

  1. 朱爾旦『万暦朝鮮戦争全史』(民主与建设出版社 2020年)p.597
  2. 万明「万暦援朝之戦時期明廷財政問題—以白銀為中心的初步考察」(古代文明第12巻第3期 2018年7月)
  3. 同1

参考資料

  1. 金洪圭編著『秀吉・耳塚・四百年』(雄山閣出版 1998年)
  2. 魯成煥「耳塚の『霊魂』をどう考えるか」(日文研フォーラム第268回 2013年6月)

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