第14回 東アジアの平和の礎となった思想―儒教

日中交流の史跡と文化
朱舜水木像(水戸徳川ミュージアム蔵)

 応仁の乱以来、100年以上続いた戦国時代。人びとは、秩序なき乱世に苦しんでいました。公家の家に生まれた藤原惺窩(ふじわら せいか)もその1人。惺窩は、18歳の時、土豪の襲撃により父と兄を失いました。1598年、秀吉の朝鮮出兵で日本に拉致された朝鮮の儒者姜沆(カン ハン)に会った時、惺窩はこう語ったといいます。
 「残念です。私は中国に生まれることもできず、また朝鮮に生まれることもできず、日本のこのような時代に生まれるとは」(姜沆『看羊録』賊中聞見録)
 幼いころ仏門に入った惺窩ですが、朱子学に代表される中国近世の新儒学に憧れ、1596年、薩摩から明へ渡航を試みます。風波のため、この計画は失敗に終わりましたが、この地で薩南学派が訓点を加えた『四書集註』(朱子学のバイブルともいうべき儒教経典の注釈書)を入手します。その後、姜沆との交流を通じて、大義名分を重んじる朱子学が、中国や朝鮮の秩序ある社会の要(かなめ)となっていることを知った惺窩は、還俗(げんぞく)してその研究と普及に努めます。
 1603年に幕府を開いた徳川家康にとっても、安定した体制の確立や、中国・朝鮮との関係修復は、喫緊の課題でした。内政や外交には、相国寺の僧西笑承兌(さいしょう しょうたい)らが顧問となっていましたが、家康は新たに在野の儒学者を抜擢することにしました。後ろ盾のない在野の学者の方が扱いやすかったからでしょう。この期待に応えて幕府に仕えたのが、惺窩の弟子の一人林羅山でした。あまりの御用学者ぶりに「能言鸚鵡(ものいうおうむ)」と酷評された羅山ですが、その努力によって朱子学は幕府の官学となりました。
 家康の孫に当たる水戸光圀は、明の遺臣で日本に亡命した朱舜水を師と仰ぎ、幼少から舜水の英才教育を受けた安積澹泊(あさか たんぱく)を総裁として、『大日本史』の編纂を始めます。少年時代、奇行放蕩を重ねていた光圀は、18歳の時に『史記』を読んで、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の徳義ある生きざまに感銘を受け、自らの行いを正すとともに、儒教思想に基づく修史事業によって、秩序ある社会を築こうと考えたのです。
 こうして日本が儒教国家の仲間入りをしたことにより、東アジアに200年以上に及ぶ太平の世が訪れたのです。

▼姜沆像(韓国全羅南道霊光郡内山書院)

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