【コラム】唐人屋敷と興福寺・長崎新地中華街

日中交流の史跡と文化
福建会館天后堂の天上聖母像(媽祖像)

山﨑穂波

 唐人屋敷とは、1689年(元禄2年)、江戸幕府が現在の長崎市館内町に設けた唐人(中国人)居住区のことです。その広さは約9400坪、竹垣と堀に囲まれたその敷地内では、約2000人の唐人が滞在していたと言います。一つしかない出入口では、密貿易を防ぐための身体検査が行われ、近くの唐寺に参拝する以外、外出は厳しく制限されていました。
 ここに滞在する唐人との間で、通訳の業務や貿易の管理、海外情報の収集を行っていたのが、唐通事です。長崎奉行配下の地役人であった唐通事は、中国にルーツをもつ70ほどの家筋によって世襲されていました。世襲とはいえ、本通事と呼ばれる主要ポストは11、12席ほど。このポストを目指して、幼いころから中国語の猛特訓が続けられていました。
 唐人屋敷は、1859年(安政5年)、長崎の開港とともに廃止され、1870年(明治3年)に起こった火災で焼失してしまいました。跡地の一角には、唐人たちが建立した観音堂地神堂天后堂という3つの御堂と、明治時代に整備された福建会館(正門・天后堂)がいまも残り、市の史跡に指定されています。
 一方、唐人屋敷跡の周辺には、江戸時代の日中交流のにぎわいを伝える史跡が数多く残っています。
 長崎三福寺の一つ興福寺は、1624年(寛永元年)に中国僧真円しんえんが長崎で最初に開いた唐寺(中国風の寺)で、唐人屋敷の唐人たちも参拝に訪れていました。いま境内には旧唐人屋敷門が移設され、国の重要文化財に指定されています。また境内には媽祖を祀った媽祖堂もあります。唐船には航海の守護神である媽祖が祀られていましたが、日本滞在中は媽祖を船から上げ、この御堂に預けていたのです。ちなみに長崎で有名な眼鏡橋も、1634年(寛永11年)、この寺の第二代住職であった中国僧黙子如定禅師が、参詣する人々のために造ったものです。また興福寺では、1654年(承応3年)に渡来した隠元禅師が中国から伝えたという精進料理、「普茶料理ふちゃりょうり」も提供しています。
 唐人屋敷跡の海側には、新地中華街があります。1698年、唐船の積荷を収めた蔵が大火に遭ったため、当時海岸だったこの地に総面積3500坪の人口島を造り、唐船の積荷を保管する新地蔵所しんちくらしょを設けました。唐人屋敷が廃止されると、唐人たちがこの地に居を構えるようになり、やがて横浜、神戸と並ぶ日本3大中華街の一つとなりました。中国の福建料理をベースとする長崎ちゃんぽんも、ここではお店ごとにアレンジされた味が楽しめるそうです。
 江戸時代の日中交流の窓口であった長崎を訪れ、当時のにぎわいをいまに伝える史跡や料理を堪能してみてはどうでしょうか。

▼円山応挙「長崎港図」(寛政4年(1792)長崎歴史文化博物館蔵)〔出典〕唐人屋敷の位置(唐人屋敷推進室、平成18年1月)

東明山興福寺
住所   〒850-0872 長崎県長崎市寺町4-32
開門時間 7:00~17:00
料金   大人300円 中高生200円 小学生100円

長崎新地中華街
住所   〒850-0842 長崎県長崎市新町町

参考資料

  1. 唐人屋敷跡探訪マップ(まちぶらプロジェクト 2020年1月発行)
  2. 唐人屋敷(蔵の資料館パンフレット日本語版)
  3. 唐人屋敷(蔵の資料館パンフレット中国語版)
  4. 唐人屋敷の4つ御堂について(長崎市まちづくり部まちづくり推進室 日本語版)
  5. 唐人屋敷の4つ御堂について(長崎市まちづくり部まちづくり推進室 中国語版)
  6. 林陸朗『長崎唐通事―大通事林道栄とその周辺(増補版)』(長崎文献社 2010年)
  7. 普茶料理(東明山興福寺)
  8. 長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」https://www.at-nagasaki.jp/ 2023/12/01
  9. 長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネットhttps://www.nagasaki-tabinet.com/ 2023/12/01
  10. 長崎市ホームページhttps://www.city.nagasaki.lg.jp/2023/12/01
  11. 長崎新地中華街http://www.nagasaki-chinatown.com/2023/12/01

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