征韓論

日韓交流の歴史と文化
絹本着色吉田松陰像(山口県文書館蔵)

海防論から征韓論へ

 ロシアへの脅威に始まる江戸時代の海防論は、尊皇攘夷論を経て、天皇を中心とする王政復古を実現します。西欧の帝国主義を手本としたこの王政復古は、神功皇后の三韓征伐を大義名分として、朝鮮半島の支配を目指す征韓論を生み出します。
 幕末、吉田松陰が描いた構想は、松下村塾に集まった伊藤博文や山縣有朋らによって、明治以降、現実の政策として実施されていきました。

伊藤博文(1841-1909) 山縣有朋(1838-1922)

参考資料

  1. 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
     朝鮮問題は、王政復古の理念と深く結びついていたのであり、その処理は明治維新そのもの、維新政府自体の正統性にかかわる深刻な問題だったということができます。(p.220)
  2. 林子平『海国兵談』跋
     予嚮に『三国通覧』を著す。其書也、日本の三隣国、朝鮮・琉球・蝦夷の地図を明せり。其意、日本の雄士、兵を任ふて此三国江入る事有ん時、此図を諳じて応変せよと也。亦此『海国兵談』は彼の三隣国及び唐山、莫斯歌未亜等の諸外国より海寇の来る事有ん時、防禦すべき術を詳悉せり。(→国立国会図書館デジタルコレクション
  3. 吉田松陰「幽囚録」(安政元年(1854年)『吉田松陰全集』第1巻、岩波書店 1936年)
     朝鮮を責めて質を納いれ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。(→国立国会図書館デジタルコレクション
  4. 吉田松陰「兄杉梅太郎宛書簡」(安政2年(1855年)4月24日、『吉田松陰全集』第8巻、岩波書店 1939年)
     魯・墨講和一定す、決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にして信義を厚うし、其の間を以て国力を養ひ、取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし。(→国立国会図書館デジタルコレクション
  5. 吉田松陰「久坂玄瑞に復する書」(安政3年(1856年)7月18日、『吉田松陰全集』第4巻、岩波書店 1939年)
     今や徳川氏、已に二虜と和親したれば我れより絶つべきに非ず。我れより之を絶たば、是れ自ら其の信義を失ふなり。今の計たる、疆域を謹み条約を厳にして、以て二虜を羈縻し、間に乗じて蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満洲を拉き、支那を圧し印度に臨みて、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若かざるなり。(→国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 内閣総理大臣(山形有朋)の演説(『衆議院第一回通常会議事速記録』1890年(明治23年)12月6日付)
     蓋国家独立自営の道に二途あり、第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主権線とは国の疆域を謂ひ、利益線とは其の主権線の安危に、密着の関係ある区域を申したのである。凡国として主権線、及利益線を保たぬ国は御座いませぬ、方今列国の間に介立して一国の独立をなさんんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累ねて、漸次に国力を養ひ其の成蹟を観ることを力めなければならぬことと存じます。即予算に掲げたるやうに、巨大の金額を割いて、陸海軍の経費に充つるも、亦此の趣意に外ならぬことと存じます。寔に是は止むを得ざる必要の経費である。(→国立公文書館アジア歴史資料センター
  7. 宮本小一郎「朝鮮論 第一六」(外務省調査部編『大日本外交文書』第2巻第2册 1938年)
     方今朝鮮の事を論ずるもの曰く、王政復古し大号令天皇陛下より出る上は、朝鮮は古昔の如く属国となし、藩臣の礼を執らせねばならぬ也。(→国立国会図書館デジタルコレクション

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