三つの半跏思惟像

日韓交流の歴史と文化
(左)半跏思惟像 (中)弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)(右)弥勒菩薩半跏像(宝髻弥勒)

 この三体の弥勒菩薩半跏像は、いずれも日本や韓国の国宝に指定されている仏像です。このうち一体は日本で作られたものと考えれていますが、どれでしょうか。

参考資料

  1. 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
     (京都・太秦にある広隆寺の弥勒菩薩像は)飛鳥美術の代表的な作品として、第二次大戦後の新制度のもとで彫刻部門の国宝第一号に指定されました。ところが、これとそっくりな半跏思惟像が韓国にもあります。ソウルの国立中央博物館に所蔵されている金銅弥勒菩薩像です。
     広隆寺は、『日本書紀』によると、推古11(603)年に渡来系氏族の秦河勝が聖徳太子から仏教を受けて開寺したといわれ、この弥勒像が太子から下賜されたものだと考えられてきました。しかし、この仏像がアカマツで作られていたことが判明し、だれが、どこで作ったものなのかが改めて問題となりました。というのは、飛鳥時代の仏像は、ほとんどがクスノキで作られており、平安時代以降になるとヒノキ製がおおくなるという用材の流れが明らかにされてきたからです。マツで作られた広隆寺の弥勒像はきわめてまれな例外ということになります。木材が豊富な日本では、加工にむかないマツは使用されませんでした。日本の国宝第一号が、実は日本製ではないのではないか。『日本書紀』には、聖徳太子が死んだあと推古31(623)年に、新羅から仏像が送られて広隆寺に安置されたという記事があります。この弥勒菩薩像も、朝鮮半島で作られたものではないかとする見解が有力になったのです。(pp.81-82)
  2. 小原二郎「顕微鏡でのぞく木の文化史」(『木材研究・資料』第30号 1994年)
    弥勒菩薩のなぞ
     日本人は弥勒菩薩の像が好きですが,その代表的なものに奈良中宮寺の弥勒と、京都の太秦の広隆寺の弥勒とがあります。前者は60円切手になっていて皆さんよく馴染んでいられる仏像です。後者は国宝第一号の仏像で、東洋のミロのビーナスとも呼ばれる600円切手の仏像です。私がこんな変わった研究を始めた動機は、この広隆寺弥勒にありますので、そのお話をしましょう。
     私は戦争中は京都の学生でした。美術史で著名な源豊宗先生についてよくお寺を回っていましたが、広隆寺に行ったとき、源先生は次のような話をされました。
     「広隆寺には有名な宝冠弥勒菩薩のほかにもう一体の弥勒像がある。 この像の正式の名は、宝髻弥勒だが、泣いたような顔をしているので俗称を泣き弥勒という。ところでお寺には朝鮮新羅の国王から弥勒像一体を寄贈されたという記録がある。従来の説では下手な泣き弥勒が渡来仏で、それを手本にして日本で彫ったら、この美しい東洋のミロのビーナスができたということになっている。 しかし最近になって宝冠弥勒はどうも朝鮮で作られたのではないかという説が出てきた。誰かこれを科学的に証明する人はないだろうか。」と言われ、
     更に話を続けて、
     「法隆寺には有名な玉虫の厨子がある。従来はこんな立派なものは百済で作られたに違いないと言われていたが、昆虫学の先生が透し彫りの下に敷かれている玉虫の羽根を調べて、この玉虫は朝鮮には棲んでないという証明をしたので、日本で作られたことが分かった。」
    とも言われました。
     源先生はこのような科学的な方法で、仏像の戸籍を明らかにする人はいないだろうかと言われたのです。
     私は戦後京都のある大学に勤務することになりました。終戦直後の混乱の時期で研究のためのお金も装置も何もありません。そこで源先生の話を思い出して、弥勒さんの材料を調べようと思い立ったのです。昭和23年の暮れのことでした。私はお寺を訪ねて、ほんの髪の毛くらいの小さな材片が欲しいと住職さんに頼みました。住職さんは私の願いを聞き届けて、仏像の中刳に手を入れ、へその裏あたりから妻楊子の頭くらいの材片を取ってくれました。泣き弥勒からも同じように材片を取って下さったのです。
     さて、帰って材片を顕微鏡で調べたところ、宝冠弥勒はアカマツで、泣き弥勒はクスノキであることが分かりました。そうなると従来の定説は逆になります。朝鮮にはクスノキは生えていませんし、日本には良材が多くあるから、ヤ二が出て削りにくいアカマツで仏像を彫るとは考 えられないからです。私が集めた750体の中の唯一の例外であることからも、日本製とは考えにくい。そこで私は朝鮮渡来ではないかと雑誌に発表しました。
     ところが文化庁から妄説を吐くなとたいへん叱られました。文化庁は私が雑誌に発表したあとに「国宝第一号用材クスノキ」という証書をお寺に渡したからです。門外漢の若僧のいうことなど問題にしなかったのでしょう。私は顕微鏡でアカマツと出たことは譲れないが、朝鮮説は取り消すということで結末をつけました。私はまだ若かったので、そんなことが動機になって、仏像の用材の調査にのめり込むことになり、10年ほどの歳月をこの研究に費やしてしまいました。
     考えてみると運命というのは不思議なものです。もしあのとき住職さんが材片を弥勒像の足のところから削って下さっていたら、私はこんな研究はしなかったと思います。というのは弥勒像は1,300年も経っていますから、明治の初めには足のところがぼろぼろで、蔵にしまってありました。それを大正の初期に、新納さんという大仏師が修理しましたが、新納さんでも飛鳥仏はクスノキだと信じていましたから、アカマツにクスノキを接いでしまったのです。そこから削っていれば何のへんてつもありませんし、文化庁から叱られることもなかったので、私は恐らくこの研究は途中でやめていたと思います。叱られたので意地になってやったというのは、運命の皮肉だと思います。
     韓国のソウル博物館の中央には、この宝冠弥勒と瓜二つというほどよく似た弥勤像があります。これは李王朝に伝わってきた韓国の最重要の仏像です。そんな関係から、今では学会では朝鮮渡来説が有力になっています。

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