仏教から見た日中韓の文化交流
702年、倭は国号も「日本」と改め、30年ぶりに遣唐使を派遣しました。
当時、中国は史上唯一の女帝である則天武后の時代。高宗の皇后として、中宗、睿宗の生母として、三代にわたって「垂簾聴政」を続けてきた則天武后でしたが、男尊女卑の中国で女性が帝位につくのは容易なことではありませんでした。そんな則天武后を助けたのが、彼女の男娼でもあった懐義ら仏教の僧侶でした。彼らは「太后(則天武后)は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべし」という讖文を偽造し、女帝擁立のためのプロパガンダを展開したのです。
僧侶たちの支援によって帝位についた則天武后は、仏教を厚く保護し、国都と定めた洛陽で二つの大仏の建立を計画しました。高宗の時代にも大仏が建立されたことがありましたが、これは洛陽郊外の龍門石窟に造られた石仏(廬舎那仏像)でした。則天武后が計画した大仏は、これとは異なるものでした。
一つは695年、僧懐義の上奏により計画された夾紵大像。夾紵というのは、布を漆で張り合わせて造形する技法で、日本では脱活乾漆造と呼ばれています。高さは100余尺、約30m。洛陽城の中心にある明堂の隣に天堂を建て、そこにこの巨大な仏像を建てようとしたのです。国庫を傾けて行った大事業でしたが、火事によって焼失してしまい、計画は中止となってしまいました。
もう一つは700年、僧曇暢の上奏により計画された白司馬坂大像。金銅製の大仏で、高さはなんと1000尺、約300mの超大仏です。夾紵大像の建立で国庫が枯渇してしまったため、則天武后は全国の僧尼に毎日一文ずつ銅銭を寄進させることで、大仏建立の資金を調達することにしました。しかし、無謀ともいえるこの計画は、狄仁傑ら官界からの大反対を受け、中止となってしまいました。
遣唐使の粟田真人らが則天武后に謁見したのは、まさにこれらの計画が進行していた時期。遣唐使の中には、細工生(木工技師)、鋳生(鋳造技師)なども含まれていましたから、その情報は日本にも伝わったことでしょう。実際、その後、日本では、これらの技法を使った大仏が次々と造られていきます。また、中国史上最初の女帝となった則天武后の政策や振る舞いは、奈良時代に活躍した女性天皇たちにも大きな影響を与えました。
奈良に残る仏教遺跡を巡りながら、唐が日本に与えた影響について考えていきましょう。
▼廬舎那仏像(龍門石窟)
▼洛陽城の天堂と明堂(CG復元図)
注
- 倭から日本への国号の変更
咸享元年三月,遣使賀平高麗,爾後繼來朝貢。則天時,自言其國近日所出,故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。(『唐会要』巻99)
参考文献
- 木宮泰彦「唐の白司馬坂の大佛像と我が東大寺大佛」(『日支交通史(巻上)』金刺芳流堂 1926年)
- 松本文三郎「則天武后の白司馬坂大像」(『仏教史雑考』創元社 1944 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040267 (参照 2025-08-08)
日程
8:40 奈良ユースホステル出発
8:47 市営球場発→奈良交通バス→ 9:07 JR奈良駅西口着
9:15 JR奈良駅発→JR大和路快速天王寺行→ 9:26 法隆寺駅着
9:26 法隆寺駅→徒歩22分(1.5km)→ 9:48 法隆寺
9:48~11:12 法隆寺見学
法隆寺
飛鳥時代に漢族系渡来人の鞍作止利仏師が制作した釈迦三尊像と、奈良時代に女帝称徳天皇が制作させた百万塔陀羅尼を通して、日中の文化交流を考えます。
⑴金堂(釈迦三尊像)
『扶桑略記』によると、継体天皇16年(522年)、中国から司馬達等が渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝しました。百済の聖明王が倭に仏像と経綸を伝えた仏教公伝(538年)よりも16年も前のことです。
司馬達等は鞍部村主という氏姓を賜与され、子の鞍部多須奈や孫の鞍作止利は仏師として活躍しました。この鞍作止利が造ったのが釈迦三尊像です。光背の裏面には、銘文があり、この仏像が造られた経緯と制作者である鞍作止利の名が刻まれています。
⑵大宝蔵院(百万塔陀羅尼)
時代は下って、奈良時代。則天武后が僧懐義を男娼としたように、女帝であった孝謙上皇は僧道鏡を寵愛し、宇佐八幡宮の虚偽の託宣を使って、彼を天皇の位につけようとしました。764年(天平宝字8年)、藤原仲麻呂は孝謙上皇の策謀を止めようと叛乱を起こしますが、戦いに敗れて殺されてしまいました(藤原仲麻呂の乱)。
その後、孝謙上皇は、淳仁天皇を廃位し、重祚して称徳天皇となり、道鏡を太政大臣禅師に任じて、仏教重視の政策を行うようになります。そうした中で行われたのが、百万塔の作成事業でした。称徳天皇は、則天武后の時代に翻訳された無垢浄光大陀羅尼経に従って、百万の塔を作成し、その中にこの陀羅尼を納めて、十万基ずつ十の官寺に安置したのです。当時、仏教の経典の書写は、経師と呼ばれる専門家によって行われていましたが、百万もの陀羅尼を写すのは容易ではありません。そこで、中国から伝わった印刷術を使い、百万塔陀羅尼が印刷されたのです。製作年代が明らかな印刷物としては、世界最古のものとされています。
11:12 法隆寺発→徒歩22分(1.5km)→11:34 法隆寺駅着
11:37 法隆寺駅発→JR大和路快速奈良行→11:48 奈良駅着
11:48 奈良駅発→徒歩21分(1.5km)→12:09 興福寺国宝館着
興福寺
国宝館(八部衆像)入場料 900円
734年(天平6年)、光明皇后は亡母の一周忌の供養のため、興福寺に西金堂を建立し、釈迦三尊像を本尊に、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像などを安置しました。これらの仏像には則天武后の夾紵大像と同じ夾紵=脱活乾漆造という技法が使われていますが、これを造ったのが将軍万福という仏師です。将軍という氏については、『日本書紀』欽明天皇15年2月の条に「百済、下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏等を遣わして救兵を乞う」という記録があり、天平年間には史生の将軍陽生、天平宝字年間には経師の将軍水通などの名が正倉院文書の中に見られることから、百済系の渡来人ではないかと考えられています。
興福寺の西金堂は、平重衡の南都焼討のほか数度に渡って焼失しましたが、軽く移動が容易な脱活乾漆造の仏像は難を逃れ、八部衆像や十大弟子像は1959年に食堂跡に開館した国宝館に展示されています。この中、八部衆像の一つ五部浄像は、胸部以下が破損しているため、脱活乾漆造の内部構造を見ることができます。
注
- 将軍三貴
欽明天皇15年2月、百濟遣下部杆率將軍三貴・上部奈率物部烏等乞救兵。(『日本書紀』) - 将軍陽生
皇后宮職移 兵部省
史生大初位上將軍陽生 上日肆拾壹
寫紙壹佰玖拾張
右起去年八月十日盡九月廿一日,上日幷寫紙如件,今錄狀故移
天平七年八月九日 少屬從八位下大藏忌寸
正六位上行大進勳十二等安宿首
(『續修東大寺正倉院文書』十六) - 将軍水通
東寺寫經所牒(正倉院文書)
東寺寫經所 牒嶋院
合請經師八人
將軍水通 三嶋岡万呂 若倭部國桙
岡大津 阿閇廣人 余乙虫
秦忍國 丈部濱足
牒,依大保去八月廿一日宣,爲令奉寫金剛般若經,所請如件,故牒。
天平寳字二年十月三日主典正八位上安都宿禰雄足
13:00 興福寺国宝館→徒歩8分(500m)→13:15 まめじか食堂
13:15~14:15 まめじか食堂で昼食
14:15 まめじか食堂→徒歩6分(450m)→14:21 東大寺南大門
東大寺
⑴南大門(石獅子像)
鎌倉時代初めに行われた東大寺の再興の際には、南宋明州(現浙江省寧波)から伊行末らの石匠も招かれました。法華堂前の石灯籠は彼らが1254年(建長6年)に建立したものです。
『東大寺造立供養記』によれば、南大門の石獅子像も南宋から来た4人の石匠によって制作されたといい、一説にはこれも伊行末らの作品ではないかといいます。なお、材料となった石材も明州から運ばれてきたものです1。
注
- 『東大寺造立供養記』
建久七年(1196年),中門石獅々、堂内石脇士、同四天像,宋人字六郎等四人造之。若日本國石難造,遣價直於大唐所買來也。運賃雜用等凡三千餘石也。
参考文献
14:40 東大寺南大門発→徒歩4分(300m)→14:44 東大寺大仏殿入堂口
14:44 東大寺大仏殿入堂口 拝観料 800円
15:00~15:40 東大寺大仏殿見学
⑵大仏殿(盧舎那仏像)
則天武后でさえ実現することができなかった青銅大仏の造営。東大寺の大仏は、白司馬坂大像に較べれば小規模とはいえ、使用した銅の量は73万9560斤(約500t)、鋳造に関わった技術者と労働者の延べ人数は88万6977人1、当時の日本でこのような大事業を行うのは容易なことでありませんでした。そこで、聖武天皇が目をつけたが、三人の渡来系氏族出身の人物でした。
第一の人物は、行基。応神天皇の時代に百済から渡来した漢族系渡来人王仁の子孫です。行基は、困窮者の救済や灌漑事業などを通じて、民衆の圧倒的な支持を得ていました。聖武天皇は大仏造営に必要な予算を確保するため、行基に勧進(寄付集め)を依頼しました。則天武后は、全国の僧尼から毎日一銭ずつ徴収しようとして大反対されましたが、行基は地道な慈善活動で民衆の支持を得ていたため、多くの寄進があったようです。
第二の人物は、国中連公麻呂。彼の祖父・国骨富は、百済の高官(徳率)でしたが、百済が滅亡した後、倭に亡命しました。公麻呂は当初、正七位下という下級官吏でしたが、大仏造営の総監督に抜擢され、749年(天平勝宝元年)には従五位上、767年(神護景雲元年)には従四位下に叙され、その間、758年(天平宝字2年)には、彼が暮らしていた大和国葛下郡国中村にちなんで国中連を賜与されています2。
第三の人物は、大鋳師の高市連大国。『扶桑略記』によると、継体天皇16年(522年)、中国から司馬達等が渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝しました。彼は鞍部村主という姓を賜与され、子の鞍部多須奈や孫の鞍作止利は仏師として活躍しました。高市連大国もこうした高市郡に暮らす仏師の出身と考えられています。彼は高市真麻呂や柿本小玉らとともに大仏の鋳造を行い、749年(天平勝宝元年)、従五位下に叙されました。
この三人のほかにもう一人、大仏の造営に大きく寄与した渡来人がいます。百済王敬福です。百済の末期、義慈王は豊璋と善光の兄弟を人質として倭に送りました。百済が滅んだ後、豊璋は百済復興のため朝鮮に帰りましたが、善光は倭に留まり、百済王の氏姓を賜与されました。その曾孫に当たるのが、百済王敬福です。大仏は当初、全体が金メッキされており、1万436両(440Kg)もの金が使われていました。しかし当時の日本には国産の金はありません。そんな中、百済王敬福は749年(天平21年)、任地の陸奥国小田郡(現宮城県遠田郡涌谷町一帯)から900両(38kg)もの金を貢上したのです。これに喜んだ聖武天皇は、全国に免税を実施するとともに、産金に功績のあった7名に昇叙を行いました。この7名の中、陸奥守百済王敬福、陸奥大掾余足人(のち百済足人)、戸浄山は百済系渡来人、朱牟須売は漢族系渡来人と考えられています3。
なお、東大寺の大仏は、過去に2回焼失しています。
第一回は、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討。このとき大仏の修復をしたのは、宋の鋳工陳和卿らでした3。
第二回は、1567年(永禄10年)の松永久秀と三好三人衆の戦い。江戸時代になって、ようやく本格的な修復が行われ、1692年(元禄5年)、開眼供養が行われて、現在の姿となりました。
- 東大寺大仏造営に要した資材と労働
用熟銅七十三萬九千五百六十斤、白〓(金|葛)一萬二千六百十八斤、煉金一萬四百仨六兩、水銀五萬八千六百廿兩、炭一萬六千六百五十六斛。‥‥金知識人卅七萬二千七十五人、役夫五十一萬四千九百二人。(「大仏殿碑文」(『東大寺要録』巻第二(醍醐寺本)所収)) - 国中連公麻呂とは
散位從四位下國中連公麻呂卒,本是百濟人也。其祖父德率國骨富,近江朝廷歲次癸亥屬本蕃喪亂歸化。天平年中,聖武皇帝發弘願,造廬舍那銅像,其長五丈,當時鑄工無敢加手者,公麻呂頗有巧思,竟成其功,以勞遂授四位,官至造東大寺次官兼但馬員外介。寶字二年,以居大和國葛下郡國中村,因地命氏焉。(『續日本紀』寳龜五年十月己巳條) - 大仏を修復した宋人たち
壽永二歲(1183年)二月十一日,大佛右御手奉鑄之。同年四月十九日,始奉鑄御首。同年五月十八日,奉鑄既了。首尾經卅九日,前後及十四ヶ度,終其功了。鑄物師大工陳和卿也。都宋朝工舍弟陳佛鑄等七人也。日本鑄物師草部是助以下十四人也。(『東大寺造立供養記』)
参考文献
- 臼井太一郎『我が国の著名青銅大仏とその鋳造方法の考察』(1971年)
- 浅香年木「國中連公麻呂に関する一考察」(『續日本紀研究』第4巻第1号 1957年1月)
- 今井啓一「百済王敬福とその周縁」(『続日本紀研究』第4巻第10号 1957年10月)
- 田口勇・尾崎保博編『みちのくの金~幻の砂金の歴史と科学』(アグネ技術センター 1995年)
- 岡崎譲治「宋人大工陳和卿傳」(『美術史』Vol.VIII No.2 1958年9月)
15:40 東大寺大仏殿→徒歩7分(550m)→15:47 東大寺法華堂
15:47~16:30 東大寺法華堂見学
⑶法華堂(不空羂索観音像)
1180年(治承4年)、平重衡の南都焼討により、奈良は焼け野原となり、東大寺もほとんどの仏堂が焼かれてしまいました。その中で唯一残ったのが法華堂です。
法華堂は733年(天平5年)、不空羂索観音像を本尊として建立されました。この不空羂索観音像の制作にも、則天武后の夾紵大像と同じ夾紵=脱活乾漆造という技法が使われています。
西暦 | 中国 | 日本 | 出来事 | ||
663 | 天智天皇2年 | 徳率国骨富が百済から亡命(『続日本紀』) | |||
675 | 高宗 | 上元2年 | 唐の高宗の発願により、龍門石窟に廬舎那仏石像(高さ85尺=25.8m)が造られる | ||
683 | 弘道元年 | 高宗没 | |||
684 | 睿宗 | 嗣聖元年 | 李顕(中宗)が即位直後に廃位され、李旦(睿宗)が即位 | ||
688 | 垂拱4年 | 薛懐義が明堂を造る | |||
690 | 則天武后 | 天授元年 | 持統天皇 | 薛懐義ら十人の僧が大雲経四巻を偽作し、則天武后を弥勒仏の下生とし、唐に代わり閻浮提の王となるべしとす 則天武后が即位し、国号を周と改める 則天武后が両京諸州に大雲寺を置き、大雲経を講じるよう詔を出す(『資治通鑑』巻204) |
|
695 | 証聖元年 | 則天武后が僧懐義に命じて明堂の北に天堂を建て、夾紵大像(高さ100余尺=30m)を造らせる(『資治通鑑』巻205、『太平広記』巻288所引『朝野僉載』) 天堂・明堂が火災により焼失。武后の寵が侍医の沈南璆に移ったことを恨んだ懐義による放火とされ、懐義は誅殺される 唐の則天武后が于闐国に使節を送り、実叉難陀を迎え、華厳経を訳させる |
|||
698 | 聖暦2年 | 文武天皇 | 則天武后が長生殿で法蔵法師の華厳経の講義に豁然領解し、法蔵を賢首菩薩戒師に封じる | ||
700 | 久視元年 | 大雲寺の僧曇暢が僧尼から銭を集め、高さ1000尺の大像を造るよう上奏 則天武后が白司馬坂大像の建立のため、僧尼に毎日一人一銭を喜捨するよう詔を出す 則天武后が狄仁傑の上疏を受け、白司馬坂大像の建立を中止 狄仁傑没 |
|||
701 | 長安元年 | 則天武后が再び白司馬坂大像の建立を命じ、御史張廷珪が上疏して武后を諫める | |||
702 | 大宝2年 | 33年ぶりに第8次遣唐使を派遣、粟田真人らが則天武后に謁見 | |||
703 | 長安3年 | 白司馬坂大像の鋳造のための経費が集まり、李嶠が上疏して則天武后を諫める | |||
704 | 慶雲元年 | 第8次遣唐使が帰国 | |||
705 | 中宗 | 神龍元年 | 則天武后が退位し、中宗が復位 則天武后没 |
||
708 | 元明天皇 | 和銅元年 | 武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられ、和銅に改元、和同開珎を鋳造 | ||
710 | 睿宗 | 唐隆元年 | 中宗が韋皇后らに毒殺され、李重茂(廟号なし)が即位 睿宗(李旦)が三男の李隆基(後の玄宗)と協力して韋后一派を排除し、重祚 |
||
712 | 玄宗 | 和銅5年 | 太安万侶が『古事記』を編纂し献上 | ||
717 | 元正 天皇 |
養老元年 | 第9次遣唐使を派遣 | ||
718 | 養老2年 | 第9次遣唐使が帰国 | |||
732 | 聖武天皇 | 天平4年 | |||
733 | 天平5年 | 第10次遣唐使を派遣 羂索院(東大寺法華堂)が建立され、僧良弁が脱活乾漆造の不空羂索観音菩薩像を安置 |
|||
734 | 天平6年 | 第10次遣唐使が帰国 | |||
740 | 天平12年 | 太宰小弐藤原広嗣が叛乱を起こす | |||
743 | 天平15年 | 行基1が東大寺廬舎那仏造営の勧進に起用される | |||
745 | 天平17年 | 東大寺廬舎那仏の造営開始 | |||
747 | 天平19年 | 国中連公麻呂が不空羂索観音像の光背を造るための鉄20挺を請求する造仏所解を出す(大日本古文書丸ノ326) | |||
749 | 孝謙天皇 | 天平21年 | 百済王敬福が陸奥小田郡(現宮城県遠田郡涌谷町一帯)で算出した黄金900両(38kg)を貢上 | ||
752 | 天平勝宝4年 | 東大寺廬舎那仏の開眼供養会開催 第12次遣唐使を派遣 |
|||
755 | 天宝14年 | 11月、安史の乱が起こる | |||
758 | 粛宗 | 淳仁天皇 | 天平宝字2年 | 国中連公麻呂が大和国葛下郡国中村の居所にちなみ、国中連の氏姓を賜る | |
761 | 天平宝字5年 | 6月、国中連公麻呂が法華寺の阿弥陀浄土院造営の功により爵一級を賜る 10月、国中連公麻呂が造東大寺次官に任ぜられる |
|||
764 | 代宗 | 天平宝字8年 | 9月、藤原仲麻呂が乱を起こす(恵美押勝の乱) 10月、孝謙上皇が称徳天皇として重祚 称徳天皇が、恵美押勝の乱で亡くなった人々の菩提を弔い、鎮護国家を祈念するため百万塔の作り、その中に『無垢浄光大陀羅尼経』2を納めることを発願 |
||
767 | 称徳天皇 | 天平神護3年 | 2月、国中連公麻呂が従四位下に叙せられる | ||
769 | 神護景雲3年 | 大宰府の主神中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じ、これを虚偽と報告した和気清麻呂が大隅国に配流される(宇佐八幡宮神託事件) | |||
770 | 光仁天皇 | 宝亀元年 | 4月、百万塔が完成し、十官寺に納める 8月、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位 |
||
772 | 宝亀3年 | 3月、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月、他戸親王も皇太子を廃され、代わって百済系諸蕃氏族出身の高野新笠を生母とする山部王(のちの桓武天皇)が立太子される。(光仁天皇呪詛事件) | |||
781 | 徳宗 | 桓武天皇 | 天応元年 | 4月、光仁天皇が崩御し、桓武天皇が即位 | |
延暦13年 | 10月、平安京へ遷都 |
注
- 行基は王仁の末裔か?
行基,藥師寺沙門也。俗姓高志氏。厥考諱才智,字智法君之長子也。本出於百齊王子王爾之後焉。(『大僧上舎利瓶記』唐招提寺蔵) - 則天武后の時代に翻訳された『無垢浄光大陀羅尼経』
無垢淨光大陀羅尼經一卷(第二出與實叉難陀離垢淨光陀羅尼同本)
右一部一卷其本見在。
沙門彌陀山。唐言寂友。覩貨邏國人也。幼小出家遊諸印度遍學經論。於楞伽俱舍最為精妙。志弘像法無悋鄉邦。杖錫而遊來臻皇闕。於天后代共實叉難陀。譯大乘入楞伽經。後於天后末年共沙門法藏等。譯無垢淨光陀羅尼經一部。譯畢進內辭帝歸邦。天后厚遺任歸本國。((唐)智昇撰『開元釋教錄』總括群經錄上之九)
参考文献
コメント