2025-09-03(水)夏合宿第2日目(悪天候時)

2025年度授業計画
「脱活乾漆造」という技法でつくられた阿修羅像(奈良興福寺蔵)

仏教から見た日中韓の文化交流

 702年、倭は国号も「日本」と改め、30年ぶりに遣唐使を派遣しました。
 当時、中国は史上唯一の女帝である則天武后の時代。高宗の皇后として、中宗、睿宗の生母として、三代にわたって「垂簾聴政」を続けてきた則天武后でしたが、男尊女卑の中国で女性が帝位につくのは容易なことではありませんでした。そんな則天武后を助けたのが、彼女の男娼でもあった懐義ら仏教の僧侶でした。彼らは「太后(則天武后)は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべし」という讖文を作り、女帝擁立のためのプロパガンダを展開したのです。
 僧侶たちの支援によって帝位についた則天武后は、仏教を厚く保護し、国都と定めた洛陽で二つの大仏の建立を計画しました。高宗の時代にも大仏が建立されたことがありましたが、これは洛陽郊外の龍門石窟に造られた石仏(廬舎那仏像)でした。則天武后が計画した大仏は、これとは異なるものでした。
 一つは695年、僧懐義の上奏により計画された夾紵大像夾紵きょうちょというのは、布を漆で張り合わせて造形する技法で、日本では脱活乾漆造と呼ばれています。高さは100余尺、約30m。洛陽城の中心にある明堂の隣に天堂を建て、そこにこの巨大な仏像を建てようとしたのです。国庫を傾けて行った大事業でしたが、火事によって焼失してしまい、計画は中止となってしまいました。
 もう一つは700年、僧曇暢どんちょうの上奏により計画された白司馬坂大像。金銅製の大仏で、高さはなんと1000尺、約300mの超大仏です。夾紵大像の建立で国庫が枯渇してしまったため、則天武后は全国の僧尼に毎日一文ずつ銅銭を寄進させることで、大仏建立の資金を調達することにしました。しかし、無謀ともいえるこの計画は、狄仁傑ら官界からの大反対を受け、中止となってしまいました。
 遣唐使の粟田真人らが則天武后に謁見したのは、まさにこれらの計画が進行していた時期。遣唐使の中には、細工生(木工技師)、鋳生(鋳造技師)なども含まれていましたから、その情報は日本にも伝わったことでしょう。実際、その後、日本では、これらの技法を使った大仏が次々と造られていきます。また、中国史上最初の女帝となった則天武后の政策や振る舞いは、奈良時代に活躍した女性天皇たちにも大きな影響を与えました。
 奈良に残る仏教遺跡を巡りながら、唐が日本に与えた影響について考えていきましょう。

▼廬舎那仏像(龍門石窟)
▼洛陽城の天堂と明堂(CG復元図)

 

▼唐高宗時代の夾苧仏像(河北正定大佛寺旧蔵、米メトロポリタン美術館蔵)

  1. 倭から日本への国号の変更
    咸亨元年(670年)三月,遣使賀平高麗,爾後繼來朝貢。則天時,自言其國近日所出,故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。(『唐会要』巻99)

参考文献

  1. 木宮泰彦「唐の白司馬坂の大佛像と我が東大寺大佛」(『日支交通史(巻上)』金刺芳流堂 1926年)
  2. 松本文三郎「則天武后の白司馬坂大像」(『仏教史雑考』創元社 1944 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040267 (参照 2025-08-08)
 

1.法隆寺

 8:40 奈良ユースホステル出発
 8:47 市営球場発→奈良交通バス→ 9:07 JR奈良駅西口着
 9:15 JR奈良駅発→JR大和路快速天王寺行→ 9:26 法隆寺駅着
 9:26 法隆寺駅→徒歩22分(1.5km)→ 9:48 法隆寺
 9:48~11:12 法隆寺見学

⑴金堂(釈迦三尊像)
 『扶桑略記』によると、継体天皇16年(522年)、中国から司馬達等が渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝しました。百済の聖明王が倭に仏像と経綸を伝えた仏教公伝(538年)よりも16年も前のことです。
 司馬達等は鞍部村主くらつくりのすくりという氏姓を賜与され、子の鞍部多須奈や孫の鞍作止利は仏師として活躍しました。この鞍作止利が造ったのが釈迦三尊像です。光背の裏面には、銘文があり、この仏像が造られた経緯と制作者である鞍作止利の名が刻まれています1

▼釈迦三尊像と光背銘文拓本(法隆寺蔵)

  1. 釈迦三尊像光背銘文
     法興元卅一年、歳は辛巳にやどる(621年)十二月、鬼前大后かみさきのおおきさき(聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ)が崩。明年(622年)正月廿二日に上宮法皇(聖徳太子)が病に枕し不豫。干食王后かしわでのおおきみ(聖徳太子の妃、膳部菩岐々美郎女かしわで の ほききみのいらつめ)乃ち労疾を以て並に床に着く時、王后、王子等(山背大兄王ら)及び諸臣が愁毒を抱き、共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸王身を造り、此の願力を蒙り、病を転じて寿を延し、世間に安住せんことを。二月廿一日癸酉、王后(聖徳太子の妃)即世し、翌日法皇(聖徳太子)登遐。癸未年(623年)三月中に、願の如く、釈迦尊像並に侠侍(脇侍像)及び荘巌具(光背や台座)を敬造し竟る。斯の微福に乗じ、信道知識、現世安穏、出生入死、三主に随い奉り、三宝を紹隆し、遂に彼岸を共にし、六道に普遍する法界含識、苦縁を脱し、同じく菩提に趣くを得ん。司馬鞍首止利しばのくらつくりのおびととり仏師をして作ら使む。(浅田芳朗『日本古代金石文研究提要』1993年 p.13

⑵大宝蔵院(百万塔陀羅尼)
 時代は下って、奈良時代。則天武后が僧懐義を男娼としたように、女帝であった孝謙上皇は僧道鏡を寵愛し、宇佐八幡宮の虚偽の託宣を使って、彼を天皇の位につけようとしました。764年(天平宝字8年)、孝謙上皇の策謀を止めようと、藤原仲麻呂が叛乱を起こしますが、戦いに敗れて殺されてしまいました(藤原仲麻呂の乱)。
 その後、孝謙上皇は、淳仁天皇を廃位し、重祚ちょうそして称徳天皇となり、道鏡を太政大臣禅師に任じて、仏教重視の政策を行うようになります。そうした中、行われたのが、百万塔の作成事業でした。称徳天皇は、則天武后の時代に翻訳された無垢浄光大陀羅尼経に従い、百万の塔を作成して、その中にこの陀羅尼を納め、十万基ずつ十の官寺に安置したのです。当時、仏教の経典の書写は、経師きょうじと呼ばれる専門家によって行われていましたが、陀羅尼を百万も写すのは容易ではありません。そこで、印刷という新たな技術を使い、百万塔陀羅尼を作成したのです。製作年代が明らかな印刷物としては、世界最古のものとされています。
 十官寺の一つであった法隆寺には、いまも4万5千基余りの百万塔が保存されています。

▼百万塔陀羅尼(龍谷大学蔵)

 

2.興福寺

11:12 法隆寺発→徒歩22分(1.5km)→11:34 法隆寺駅着
11:37 法隆寺駅発→JR大和路快速奈良行→11:48 奈良駅着
11:48 奈良駅発→徒歩21分(1.5km)→12:09 興福寺国宝館着

国宝館(八部衆像)入場料 900円
 734年(天平6年)、光明皇后は亡母の一周忌の供養のため、興福寺に西金堂さいこんどうを建立し、釈迦三尊像を本尊に、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像などを安置しました。これらの仏像には則天武后の夾紵大像と同じ夾紵きょうちょ脱活乾漆造という技法が使われていますが、これを造ったのが将軍万福という仏師です。将軍という氏については、『日本書紀』欽明天皇15年2月の条に「百済、下部杆率かほうかんそち将軍三貴・上部奈率物部烏等を遣わして救兵を乞う」という記録があり、天平年間には史生の将軍陽生、天平宝字年間には経師の将軍水通などの名が正倉院文書の中に見られることから、百済系の渡来人ではないかと考えられています。
 興福寺の西金堂は、平重衡の南都焼討のほか数度に渡って焼失しましたが、軽く移動が容易な脱活乾漆造の仏像は難を逃れ、八部衆像十大弟子像は1959年に食堂しきどう跡に開館した国宝館に展示されています。この中、八部衆像の一つ五部浄像は、胸部以下が破損しているため、脱活乾漆造の内部構造を見ることができます。

▼八部衆像の一つ五部浄像(興福寺蔵)

 

3.東大寺

13:00 興福寺国宝館→徒歩8分(500m)→13:15 まめじか食堂
13:15~14:15 まめじか食堂で昼食
14:15 まめじか食堂→徒歩6分(450m)→14:21 東大寺南大門

⑴南大門(石獅子像)
 鎌倉時代の初め、平重衡の南都焼討で消失した東大寺の再建が行われました。この再建事業には、南宋明州(現浙江省寧波)から伊行末いのゆきすえらの石匠も招かれました。法華堂前の石灯籠は彼らが1254年(建長6年)に建立したものです。
 『東大寺造立供養記』によれば、南大門の石獅子像も南宋から来た4人の石匠によって制作されたといい、一説にはこれも伊行末らの作品ではないかといいます。材料の石材も明州から運ばれてきたものです1

  1. 『東大寺造立供養記』
     建久七年(1196年),中門石獅々、堂内石脇士、同四天像,宋人字六郎等四人造之。若日本國石難造,遣價直於大唐所買來也。運賃雜用等凡三千餘石也。

▼石獅子像(東大寺南大門)

 

参考文献

  1. 川勝政太郎「伊行末系石大工とその作品」(『日本石材工芸史』綜芸舎 1957年)

14:40 東大寺南大門発→徒歩4分(300m)→14:44 東大寺大仏殿入堂口
14:44 東大寺大仏殿入堂口 拝観料 800円
15:00~15:40 東大寺大仏殿見学

⑵大仏殿(盧舎那仏像)
 則天武后でさえ実現することができなかった青銅大仏の造営。これを実現したのが、聖武天皇でした。一説には、光明皇后が則天武后が造立した龍門石窟の大仏をイメージして建立したともいいます。(飯沼賢司『八幡神とはなにか』角川選書 2004年)
 東大寺の大仏は、白司馬坂大像に較べれば小規模とはいえ、使用した銅の量は73万9560斤(約500t)、鋳造に関わった技術者と労働者の延べ人数は88万6977人1、当時の日本でこのような大事業を行うのは容易なことでありません。そこで、聖武天皇が目をつけたのが、三人の渡来系氏族出身者でした。
 第一は、行基。応神天皇の時代に百済から渡来した漢族系渡来人王仁の子孫です。行基は、困窮者の救済や灌漑事業などを通じて、民衆の圧倒的な支持を得ていました。聖武天皇は大仏造営に必要な予算を確保するため、行基に勧進(寄付集め)を依頼しました。則天武后は、全国の僧尼から毎日一銭ずつ徴収しようとして大反対されましたが、聖武天皇は民衆に支持されていた行基を通じ、「一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願する者」(「大仏造立の皇詔」)を募ったのです。
 第二は、国中連公麻呂くになかのむらじきみまろ。彼の祖父・国骨富は、百済の高官(徳率)でしたが、百済が滅亡した後、倭に亡命しました。公麻呂は当初、正七位下しょうしちいげという下級官吏でしたが、大仏造営の総監督に抜擢され、749年(天平勝宝元年)には従五位上、767年(神護景雲元年)には従四位下じゅしいげに叙され、その間、758年(天平宝字2年)には、彼が暮らしていた大和国葛下郡かつげぐん国中村にちなんで国中連くになかのむらじを賜与されています2
 第三は、大鋳師の高市連大国たけちのむらじおおくに。『扶桑略記』によると、継体天皇16年(522年)、中国から司馬達等が渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝しました。彼は鞍部村主くらつくりのすくりという姓を賜与され、子の鞍部多須奈や孫の鞍作止利は仏師として活躍しました。高市連大国もこうした高市郡に暮らす仏師の出身と考えられています。彼は高市真麻呂や柿本小玉らとともに大仏の鋳造を行い、749年(天平勝宝元年)、従五位下に叙されました。
 この三人のほかにもう一人、大仏の造営に大きく寄与した渡来人がいます。百済王敬福くだらのこにきし きょうふくです。百済の末期、義慈王は豊璋と善光の兄弟を人質として倭に送りました。百済が滅んだ後、豊璋は百済復興のため朝鮮に帰りましたが、善光は倭に留まり、百済王くだらのこにきしの氏姓を賜与されました。その曾孫に当たるのが、百済王敬福です。大仏は当初、全体が金メッキされており、1万436両(440Kg)もの金が使われていました。しかし当時の日本には国産の金はありません。そんな中、百済王敬福は749年(天平21年)、任地の陸奥国小田郡(現宮城県遠田郡涌谷町一帯)から900両(38kg)もの金を貢上したのです。これに喜んだ聖武天皇は、全国に免税を実施するとともに、産金に功績のあった7名に昇叙を行いました。この7名の中、陸奥守百済王敬福、陸奥大掾余足人あぐりのたるひと(のの3人は百済系渡来人、朱牟須売しゅのむすめは漢族系渡来人と考えられています3
 なお、東大寺の大仏は、過去に2回焼失しています。
 第一回は、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討。このとき大仏の修復をしたのは、宋の鋳工陳和卿ちんなけいらでした3
 第二回は、1567年(永禄10年)の松永久秀と三好三人衆の戦い。江戸時代になって、ようやく本格的な修復が行われ、1692年(元禄5年)、開眼供養が行われて、現在の姿となりました。

  1. 東大寺大仏造営に要した資材と労働
     用熟銅七十三萬九千五百六十斤、白〓(金|葛)一萬二千六百十八斤、煉金一萬四百仨六兩、水銀五萬八千六百廿兩、炭一萬六千六百五十六斛。‥‥金知識人卅七萬二千七十五人、役夫五十一萬四千九百二人。(「大仏殿碑文」(『東大寺要録』巻第二(醍醐寺本)所収))
  2. 国中連公麻呂とは
     散位從四位下國中連公麻呂卒,本是百濟人也。其祖父德率國骨富,近江朝廷歲次癸亥屬本蕃喪亂歸化。天平年中,聖武皇帝發弘願,造廬舍那銅像,其長五丈,當時鑄工無敢加手者,公麻呂頗有巧思,竟成其功,以勞遂授四位,官至造東大寺次官兼但馬員外介。寶字二年,以居大和國葛下郡國中村,因地命氏焉。(『續日本紀』寳龜五年十月己巳條)
  3. 大仏を修復した宋人たち
     壽永二歲(1183年)二月十一日,大佛右御手奉鑄之。同年四月十九日,始奉鑄御首。同年五月十八日,奉鑄既了。首尾經卅九日,前後及十四ヶ度,終其功了。鑄物師大工陳和卿也。都宋朝工舍弟陳佛鑄等七人也。日本鑄物師草部是助以下十四人也。(『東大寺造立供養記』)

参考文献

  1. 臼井太一郎『我が国の著名青銅大仏とその鋳造方法の考察』(1971年)
  2. 浅香年木「國中連公麻呂に関する一考察」(『續日本紀研究』第4巻第1号 1957年1月)
  3. 今井啓一「百済王敬福とその周縁」(『続日本紀研究』第4巻第10号 1957年10月)
  4. 田口勇・尾崎保博編『みちのくの金~幻の砂金の歴史と科学』(アグネ技術センター 1995年)
  5. 岡崎譲治「宋人大工陳和卿傳」(『美術史』Vol.VIII No.2 1958年9月)

15:40 東大寺大仏殿→徒歩7分(550m)→15:47 東大寺法華堂
15:47~16:30 東大寺法華堂見学

⑶法華堂(不空羂索観音像ふくうけんじゃくかんのんぞう
 1180年(治承4年)、平重衡の南都焼討により、奈良は焼け野原となり、東大寺もほとんどの仏堂が焼かれてしまいました。その中で唯一残ったのが法華堂です。
 727年(神亀4年)、聖武天皇と藤原安宿媛(のちの光明皇后)の間に男子が誕生しました。喜んだ二人は、さっそくその子を皇太子に立てますが、翌728年(神亀5年)、不幸にも夭折してしまいました。二人はわが子の菩提を弔うため、山房を造り、智行僧9人をそこに住まわせました。山房には八角基壇を設け、中央には執金剛神像しゅうこんごうじんぞうが安置されていました。年輪年代法による分析から、この八角須弥壇には729年(天平元年)に伐採されたヒノキ材が使われていることが明らかになっています。
 733年(天平5年)に金鐘寺(現東大寺法華堂)が建立され、山房の八角須弥壇がここに移されました。
 その後、748年(天平20年)ごろ、不空羂索観音像ふくうけんざつかんのんぞうが八角須弥壇の中心に置かれることになりました。手に持つ「羂索」(狩猟用の縄)であらゆる衆生をもれなく救うという観音で、則天武后の夾紵大像と同じ夾紵きょうちょ脱活乾漆造という技法で造られています。高さは3.62m。
 近年行われた調査の結果、八角須弥壇の下段から7体分の仏像の台座跡が確認され、その形から不空羂索観音像の背後には執金剛神像、周囲には四天王像(現在は戒壇堂)が安置されていたことがわかりました。このため不空羂索観音像の両脇に置かれていた日光菩薩像・月光菩薩像と、八角須弥壇の背後に置かれていた吉祥天・弁財天は東大寺ミュージアムに移され、現在は脱活乾漆造で造られた不空羂索観音像と8体の天王像、厨子に入った塑像の執金剛神像だけが置かれています。

 

▼東大寺法華堂
▼不空羂索観音立像と旧来の仏像配置(東大寺法華堂蔵)
▼法華堂内の現在の仏像配置

 

▼国宝・執金剛神立像(東大寺法華堂蔵)

参考文献

  1. 「東大寺の四天王像、元は法華堂に安置? 台座跡を確認」(朝日新聞 2011年10月31日)
  2. 松村淳子「東大寺法華堂創建小考」( 古代学(奈良女子大学古代学学術研究センター) 第4号  2012年3月)
  3. 児島大輔「東大寺法華堂八角二重須弥壇部材の年輪年代調査」(奈良文化財研究所ギャラリー35)
  4. 光谷拓実「年輪が新しい歴史を語る」(『日本機械学会誌』Vol.100 No.946 1997年9月)

16:30 東大寺法華堂発→徒歩10分(750m)→16:40 正倉院着
16:45 正倉院発→徒歩27分(2km)→17:12 聖武天皇・光明皇后陵着
17:30 聖武天皇・光明皇后陵発→徒歩8分(550m)→17:38 奈良ユースホステル着
18:00 奈良ユースホステル発→徒歩2分(170m)→18:02 オランダ屋着
18:02~19:00 オランダ屋で夕食

 
西暦 中国 日本 出来事
522     継体 継体天皇16 中国から司馬達等が渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝(『扶桑略記』)
538     欽明 欽明天皇13 百済の聖明王が仏像・経典を伝える(仏教公伝
607     推古 推古天皇15 法隆寺(斑鳩寺)が完成
623 太宗   推古天皇31 鞍作止利が法隆寺に釈迦三尊像を造る
645   皇極   中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅殺、蘇我蝦夷が自殺(乙巳の変
663 高宗   天智 天智天皇2 倭が百済復興を支援するため唐・新羅連合軍と戦い、大敗を喫す(白村江の戦
徳率国骨富が百済から亡命(『続日本紀』)
668   天智天皇7 法隆寺金堂造営(年輪年代法による測定)
670   天智天皇9 法隆寺炎上(若草伽藍遺跡
675 上元2 天武天皇   唐の高宗の発願により、龍門石窟に廬舎那仏石像(高さ85尺=25.8m)が造られる
683 弘道元   高宗没
684 睿宗 嗣聖元   李顕(中宗)が即位直後に廃位され、李旦(睿宗)が即位
688 垂拱4 持統天皇   薛懐義が明堂を造る
690 則天武后 天授元   薛懐義ら十人の僧が大雲経に仮託して讖文しんぶんを作り、則天武后を弥勒仏の下生とし、唐に代わり閻浮提の王となるべしと説く
則天武后が即位し、国号を周と改める
則天武后が両京諸州に大雲寺を置き、大雲経を講じるよう詔を出す(『資治通鑑』巻204)
695 証聖元   則天武后が僧懐義に命じて明堂の北に天堂を建て、夾紵大像(高さ100余尺=30m)を造らせる(『資治通鑑』巻205、『太平広記』巻288所引『朝野僉載』)
天堂・明堂が火災により焼失。武后の寵が侍医の沈南璆に移ったことを恨んだ懐義による放火とされ、懐義は誅殺される
700 久視元 文武天皇   大雲寺の僧曇暢が僧尼から銭を集め、高さ1000尺の大像を造るよう上奏
則天武后が白司馬坂大像の建立のため、僧尼に毎日一人一銭を喜捨するよう詔を出す
則天武后が狄仁傑の上疏を受け、白司馬坂大像の建立を中止
狄仁傑
701 長安元   則天武后が再び白司馬坂大像の建立を命じ、御史張廷珪が上疏して武后を諫める
702   大宝2 33年ぶりに第8次遣唐使を派遣、粟田真人らが則天武后に謁見
703 長安3   白司馬坂大像の鋳造のための経費が集まり、李嶠が上疏して則天武后を諫める
705 中宗 神龍元   則天武后が退位し、中宗が復位
則天武后
708   元明天皇 和銅元 武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられ、和銅に改元、和同開珎を鋳造
710 睿宗 唐隆元   中宗が韋皇后らに毒殺され、李重茂(廟号なし)が即位
睿宗(李旦)が三男の李隆基(後の玄宗)と協力して韋后一派を排除し、重祚
712 玄宗   和銅5 太安万侶が『古事記』を編纂し献上
717   元正
天皇
養老元 第9次遣唐使とともに 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らが渡唐
720   養老4 元正天皇が、仏典を読む際は唐僧道栄や学問僧勝暁に従って漢音を使い、呉音の使用をやめるよう詔を出す
728   聖武天皇 神亀5 聖武天皇と藤原光明子(のちの光明皇后)の間に前年生まれたばかりの皇太子が没
夭折した皇太子のために山房を造り、智行僧9人を住まわせる
729   天平元 このころ八角須弥壇が造られ(年輪年代法による分析によって729年に伐採されたヒノキ材が使われていることが明らかになっている)、中央に執金剛神しゅこんごうしん像を安置
733   天平5 第10次遣唐使を派遣
金鐘寺(現東大寺法華堂)が建立される
734   天平6 光明皇后が亡母の一周忌の供養のため、興福寺に西金堂を建立し、釈迦三尊像を本尊に、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像などを安置
735   天平7 4月、第10次遣唐使とともに吉備真備玄昉が18年ぶりに帰朝
737   天平9 正月、遣新羅使が帰国し、新羅側の非礼に対して軍事的な緊張が高まる
大宰府で流行した天然痘が平城京に伝わり、光明皇后の異母兄弟である藤原氏四家の当主が相次いで死去
聖武天皇が国ごとに丈六釈迦三尊像の制作と大般若経一部の写経を命じる
740   天平12 太宰小弐藤原広嗣が叛乱を起こす
聖武天皇が国ごとに七重塔一区を造り、金字の金光明最勝王経一部を写して安置するよう命じる
741   天平13 聖武天皇が国分寺建立の詔を出し、全国60の国に国分寺と国分尼寺を置くことを命じる
743   天平15 10月、聖武天皇が近江国紫香楽宮(現滋賀県甲賀市信楽町)で大仏発願の詔を発し、行基1を廬舎那仏造営の勧進僧に起用する
745   天平17 1月、行基を大僧正に任ずる
747   天平19 造仏長官国中連公麻呂が興福寺の羂索菩薩像の光背を造るため鉄20挺を請求する造仏所解を出す2
9月、東大寺廬舎那仏の鋳造開始
748   天平20 このころ金鐘寺(現東大寺法華堂)の八角須弥壇中央に不空羂索観音菩薩像が安置され、執金剛神像がその背後に移される3
749   孝謙天皇 天平感宝元
天平勝宝元
2月、陸奥国守の百済王敬福が黄金900両(38kg)を献上したことを記念し、則天武后に倣って四字年号に改元
4月、聖武天皇、廬舎那仏の前で北面し、三宝の奴と自称
752   天平勝宝4 東大寺廬舎那仏の開眼供養会開催
第12次遣唐使を派遣
755 天宝14   11月、安史の乱が起こる
757
粛宗
  天平宝字元 3月、孝謙天皇が皇太子道祖王ふなどおうを廃し、大炊王おおいおう(のちの淳仁天皇)を立太子(藤原仲麻呂派の策略か?)
758   淳仁天皇 天平宝字2 8月、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位、藤原仲麻呂を太保(右大臣)に任じ、官名を唐風に改める
国中連公麻呂
が大和国葛下郡国中村の居所にちなみ、国中連の氏姓を賜る
760   天平宝字4 1月、藤原仲麻呂を太師(太政大臣)に任ずる
6月、光明皇太后
761   天平宝字5 6月、国中連公麻呂が法華寺の阿弥陀浄土院造営の功により爵一級を賜る
10月、国中連公麻呂が造東大寺次官に任ぜられる
764 代宗   天平宝字8 9月、藤原仲麻呂が乱を起こす(恵美押勝の乱
10月、淳仁天皇を廃して淡路に配流、孝謙上皇が重祚して称徳天皇に
称徳天皇が、恵美押勝の乱で亡くなった人々の菩提を弔い、鎮護国家を祈念するため百万塔の作り、その中に『無垢浄光大陀羅尼経』4を納めることを発願
765   称徳天皇 天平神護元 10月、称徳天皇が道鏡を太政大臣禅師に任ずる
767   天平神護3 2月、国中連公麻呂が従四位下に叙せられる
769   神護景雲3 大宰府の主神中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じ、これを虚偽と報告した和気清麻呂が大隅国に配流される(宇佐八幡宮神託事件
770   光仁天皇 宝亀元 4月、百万塔が完成し、十官寺に納める
8月、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位、道鏡が下野に配流される
772   宝亀3 3月、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月、他戸親王も皇太子を廃され、代わって百済系諸蕃氏族出身の高野新笠を生母とする山部王(のちの桓武天皇)が立太子される。(光仁天皇呪詛事件
781 徳宗   桓武 延暦13 10月、平安京へ遷都

  1. 行基は王仁の末裔か?
    行基,藥師寺沙門也。俗姓高志氏。厥考諱才智,字智法君之長子也。本出於百齊王子王爾之後焉。(『大僧上舎利瓶記』唐招提寺蔵)
  2. 羂索菩薩像の光背
    金光明寺造物所解 申請鐵事
    鐵貳拾挺
    右,爲造羂索菩薩光柄花萼等物,所請如件,以解
    造佛長官外從五位下國(『大日本古文書』九pp.236-7)
    解説者は「この頃東大寺に於て他に不空羂索觀音像が求められないのであるから、これを法華堂本尊に擬することも出來やう」と云って居られるが、この文書には特に「東大寺」―正確に云へば金光明寺―の像たるべき指示がどこにも與へられてゐない。また現在の羂索像の光背は木造であり、その製作にかヽる多量(二十挺)の鐵を要したとも思はれず、柄や花萼などと名付けられるべき鐵製の部分もない。然るに、その頃一つの丈六の不空羂索観音像が造られ、興福寺講堂に安置されてゐる(後それは南圓堂の本尊として迎へられた)。それは天平十八年正月廿七日に薨ぜられた牟漏女王のためにその子女によって造立され、一周忌にに供養されたものであるといふから、天平十八年中に大體造立し終って、十九年正月には莊嚴を加えるばかりになってゐたものと想像される。從って、前述の天平十九年正月八日附の金光明寺造物所の文書は羂索菩薩の光背の料物を請へるものであるから、この興福寺の羂索像に關するものとして適合してゐるやうに思はれる。(『福山敏男著作集2』中央公論美術出版 1982年 pp.100-101)
  3. 不空羂索觀音像の造立年代
    法華堂の索觀像の造立年代を天平二十年乃至は天平勝宝元年の前半頃とすることが恐らく最も穏当ではあるまいか。(『福山敏男著作集2』中央公論美術出版 1982年 p.102)
  4. 則天武后の時代に翻訳された『無垢浄光大陀羅尼経』
    無垢淨光大陀羅尼經一卷(第二出與實叉難陀離垢淨光陀羅尼同本)
    右一部一卷其本見在。
    沙門彌陀山。唐言寂友。覩貨邏國人也。幼小出家遊諸印度遍學經論。於楞伽俱舍最為精妙。志弘像法無悋鄉邦。杖錫而遊來臻皇闕。於天后代共實叉難陀。譯大乘入楞伽經。後於天后末年共沙門法藏等。譯無垢淨光陀羅尼經一部。譯畢進內辭帝歸邦。天后厚遺任歸本國。((唐)智昇撰『開元釋教錄』總括群經錄上之九)

参考文献

  1. 『週刊朝日百科 日本の歴史54 古代 大仏建立と八幡神』朝日新聞社,1987年4月26日

 

 

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