734年(天平6年)、光明皇后は亡母の一周忌の供養のため、興福寺に西金堂を建立し、釈迦三尊像を本尊に、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像などを安置しました。これらの仏像には則天武后の夾紵大像と同じ夾紵=脱活乾漆造という技法が使われていますが、これを造ったのが将軍万福1という仏師です。将軍という氏については、『日本書紀』欽明天皇15年2月の条に「百済、下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏等を遣わして救兵を乞う」2という記録があり、天平年間には史生の将軍陽生3、天平宝字年間には経師の将軍水通4などの名が正倉院文書の中に見られることから、百済系の渡来人ではないかと考えられています。
興福寺の西金堂は、平重衡の南都焼討のほか数度に渡って焼失しましたが、軽く移動が容易な脱活乾漆造の仏像は難を逃れ、八部衆像や十大弟子像は1959年に食堂跡に開館した国宝館に展示されています。この中、八部衆像の一つ五部浄像は、胸部以下が破損しているため、脱活乾漆造の内部構造を見ることができます。
注
- 将軍万福
給佛師將軍萬福 粮米六斗(「造佛所作物帳」正倉院文書) - 将軍三貴
欽明天皇15年2月、百濟遣下部杆率將軍三貴・上部奈率物部烏等乞救兵。(『日本書紀』) - 将軍陽生
皇后宮職移 兵部省
史生大初位上將軍陽生 上日肆拾壹
寫紙壹佰玖拾張
右起去年八月十日盡九月廿一日,上日幷寫紙如件,今錄狀故移
天平七年八月九日 少屬從八位下大藏忌寸
正六位上行大進勳十二等安宿首
(『續修東大寺正倉院文書』十六) - 将軍水通
東寺寫經所牒(正倉院文書)
東寺寫經所 牒嶋院
合請經師八人
將軍水通 三嶋岡万呂 若倭部國桙
岡大津 阿閇廣人 余乙虫
秦忍國 丈部濱足
牒,依大保去八月廿一日宣,爲令奉寫金剛般若經,所請如件,故牒。
天平寳字二年十月三日主典正八位上安都宿禰雄足
参考文献
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