〔コラム〕司法(作成中)

 1249年、南宋の宋慈は検死の鑑定方法などをまとめた『洗冤録』を著しました。ヨーロッパで体系的な法医学書が出版されたのは、17世紀初めのことですから、それよりも350年以上も前のことです。
 

日中司法交流史年表(赤字が司法関係)

西暦
和暦
国・地域
出来事
中国
朝鮮
日本
BC108 前漢 衛氏
朝鮮
 
辰韓
弁韓 弥生時代 漢の武帝が衛氏の古朝鮮を滅ぼし、楽浪・真蕃・玄菟・臨屯の四郡を置く
 

楽浪郡など漢の直轄郡 馬韓  
57 後漢 倭の奴国王が後漢に朝貢し、「漢委奴国王」の金印を下賜される
189 遼東太守公孫度が楽浪郡を支配
204 公孫康が帯方郡を置く
220     曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け、魏を建国
221 劉備が漢の正統を継ぐため、蜀を建国
229 孫権が皇帝に即位し、呉を建国
238 魏が公孫氏を滅ぼす
239 古墳時代 邪馬台国の卑弥呼が魏に使節を派遣(第一回)
240 帯方郡の使者が親魏倭王の金印などを齎す(第一回魏使)。卑弥呼が答謝の上表を使者に託す
243 邪馬台国の卑弥呼が魏に使節を派遣(第二回)
247 魏が帯方郡から邪馬台国に張政を派遣(第二回魏使)
263   魏が蜀を滅ぼす
265   司馬炎が魏の曹奐から禅譲を受け、西晋を建国
266 邪馬台国の壱与が西晋に使いを送る(謎の四世紀の始まり)
280 西晋 西晋が呉を滅ぼし、中国全土を統一
308



  西晋の懐帝が匈奴の首長劉聡に殺され、西晋が滅亡
313 高句麗 百済 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす
317 東晋 司馬睿が建業(現在の南京)で晋王朝を復興(東晋)
  新羅 4世紀初め、百済、新羅が建国
346 百済で近肖古クンサゴ王が即位
356 新羅で奈勿ネムル王が即位
372 百済が東晋に入朝し、冊封を受ける
前秦から高句麗に僧が派遣され、仏像と経文を伝える
百済の使者久氐が来朝し、服属のしるしに七支刀を献上(神功皇后52年を干支二運繰り上げ説により120年繰り下げ)
384 東晋から百済へ仏教が伝わる
391 倭が海を渡り、百済・新羅を攻撃(「広開土王碑」)
400 高句麗が新羅に援軍を送り、倭を撃退(「広開土王碑」)
413 倭讃が東晋に使節を派遣(『晋書』安帝紀、『南史』夷貊伝)(第一回倭使謎の四世紀終了)
414 高句麗が好太王の事績を記念して広開土王碑を建立
允恭天皇の病の治療のため、新羅から医師金武が渡来(文献上最古の医師の渡来)
420 劉裕が東晋の恭帝から禅譲を受けて、南朝宋を建国
425 倭王讃が宋に司馬曹達を派遣(『宋書』夷蛮伝)(第二回倭使
430 倭国王、宋に使節を派遣(『宋書』文帝紀)(第三回倭使
438 倭国珍、宋に使節を派遣し、安東将軍・倭国王を授けられる(『宋書』文帝紀、夷蛮伝)(第四回倭使
439 北魏 北魏の太武帝が華北を統一
443 倭国王済、宋に使節を派遣し、安東将軍・倭国王を授けられる(『宋書』夷蛮伝)(第五回倭使
451 倭国王済、宋から使持節・都督六国諸軍事を加授される(『宋書』夷蛮伝)(第六回倭使
459 雄略天皇の詔により、百済から高句麗の医師徳来が渡来、子々孫々医をもって業となし、難波薬師と呼ばれる
460 倭国王興が宋に使節を送る(第七回倭使
461 百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を人質として倭に送る
462 倭国王興が宋の孝武帝から安東将軍を授けられる
464 雄略天皇が身狭村主青と檜隈民使博徳を呉に送る(『日本書紀』雄略紀)
475 高句麗が百済の漢城を陥れ、蓋鹵王ら王族を殺害。
476 雄略天皇が百済汶洲王(文周王)に久麻那利(熊津城、公州)の地を与え、漢城(ソウル)から遷都させる(『日本書紀』雄略紀)
477 百済の文周王が没し、三斤王(文斤王)即位
478 倭国王武が宋に使節を送る(第八回倭使
479 蕭道成が南朝宋の順帝から禅譲を受け、南朝斉を建国
百済の三斤王(文斤王)没。雄略天皇が筑紫の国軍五百人を護衛につけ、東城王を百済に送る(『日本書紀』雄略紀)
倭国王武が斉の高帝から使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事、安藤大将軍に除される
500 新羅で智証王が即位
501 百済東城王が没し、弟の武寧王が即位
502 蕭衍が南朝斉の和帝から禅譲を受け、南朝梁を建国
514 新羅で法興王が即位
527 筑紫の国造磐井が反乱を起こす(磐井の乱
529 倭が近江毛野を安羅国に派遣
532 金官国が新羅に降伏し、併合される
534 西魏 東魏 北魏が東魏と西魏に分かれる
538 百済が熊津城(公州)から泗泚城(扶余)へ遷都
百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典が送る(『上宮聖徳法王帝伝』による仏教公伝)
541 百済の都泗沘城で任那復興会議が開催される
544 百済の都泗沘城で任那復興会議が開催される
550 北斉 東魏の実権者高洋が北斉を建国
552 百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典が送る(『日本書紀』による仏教公伝)
554 欽明天皇の詔により、百済から医博士王有陵陀、採薬師潘量豊固德丁有陀が来朝(最古の採薬師)
百済の聖王が新羅との戦いで戦死
557 北周 西魏の実権者宇文氏が北周を建国
南朝梁の重臣陳霸先が敬帝から禅譲を受け、陳を建国
562 新羅 新羅が大加耶国を滅ぼし、加耶全体を併合(「任那」の滅亡)
8月、呉人知聡が薬書・明堂図等を持って来朝(薬書、鍼科典籍の最初の伝来)
570 高句麗が倭に初めて使者を送る
577   北周が北斉を滅ぼす
581 北周宣帝の外戚楊堅が政権を奪い、隋を建国
587 崇仏派の蘇我馬子らが廃仏派の物部守屋を討伐(丁未の乱
589   2月、隋が南朝陳を滅ぼし、中国全土を統一
592 飛鳥時代 推古天皇が即位し、明日香に都を置く
593 厩殿皇子(聖徳太子)が日本最古の官寺四天王寺を建立し、寺内に施薬院・悲田院・敬田院・療病院の四箇院を設ける
595 高句麗から慧慈が渡来し、聖徳太子の仏教・政治・外交のブレインとなる
596 蘇我氏が法興寺(現在の飛鳥寺)を建立(高句麗の建築様式の影響?)
598 隋の文帝が第一回高句麗遠征
600 倭が隋に使節を派遣(『隋書』倭国伝、第一回遣隋使
倭が新羅に出兵
601 倭が高句麗・百済に使節を派遣して新羅攻撃を協議
607 小野妹子・通訳鞍作福利を隋に派遣(第二回遣隋使
608 隋が答礼使として裴世清を倭に派遣
裴世清を送るため、隋に使節を派遣。高向玄理、南淵請安、僧旻、倭漢福因、恵隠らを隋に留学させる(第三回遣隋使
609 百済の遣隋使が肥後国葦北津に漂着、僧道人等十一人を法興寺(飛鳥寺)に住持させる
612 隋の煬帝が第二回高句麗遠征
613 隋の煬帝が第三回高句麗遠征
614 隋の煬帝が第四回高句麗遠征
犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす(第4回遣隋使
618 李淵が隋を滅ぼして唐を建国
623 新羅から倭に仏像が送られ広隆寺に安置される(広隆寺の弥勒菩薩像か?)
630 倭が犬上三田耜、薬師恵日を唐に派遣(第一回遣唐使
632 第一回遣唐使犬上御田鍬を送って高表仁(中国側の史書では高仁表)が来日するが、礼を争って帰国
640 第二回遣隋使とともに渡海した高向玄理が、新羅を経て32年ぶりに帰国
642 高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こす
百済の義慈王が新羅に侵攻
新羅が金春秋(のちの武烈王)を高句麗に派遣
643 新羅が唐に使者を送り、救援を要請
645 2月、唐の太宗が第一回高句麗遠征
6月、倭で蘇我入鹿が誅殺され(乙巳の変)、高向玄理と僧旻を国博士に任ずる
646 倭が高向玄理を新羅に派遣
647 新羅が金春秋(のちの武烈王)を倭に派遣
唐が第二回高句麗遠征
648 唐が第三回高句麗遠征
新羅が金春秋(のちの武烈王)を唐に派遣
649 新羅が唐の衣冠礼服の制度を採用
650 新羅が独自の年号を廃し、唐の年号を採用
651 新羅の貢調使が唐風の官服で来朝、大宰府は非礼として追い返す
653 倭が吉士長丹らを唐に派遣(第二回遣唐使
654 倭が高向玄理らを唐に派遣(第三回遣唐使
別倭種韓智興、趙元宝が遣唐使とともに来朝
新羅の武烈王(金春秋)即位
高向玄理
659 倭が坂合部石布らを唐に派遣(第四回遣唐使)、使節は長安に抑留される
660   唐・新羅連合軍が百済を攻撃、義慈王が降伏し百済滅亡
661 新羅の武烈王(金春秋)没
倭が百済の遺臣鬼室福信らの要請により、人質となっていた余豊璋を五千の兵をつけて帰国させる
663 倭が百済復興を支援するため、上毛野稚子を将軍とする二万七千の軍勢を派兵(白村江の戦
664 5月、唐の百済鎮将劉仁軌が郭務悰を倭に派遣するが、倭はこれを私使として拒否
倭が対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置く
665 唐が劉徳高、郭務悰らの使節を倭に派遣
倭が劉徳高らを送るため守大石らを唐に派遣(第五回遣唐使
667     倭が唐使司馬法聡を送るため伊吉博徳らを派遣(第六回遣唐使・百済までか?
668   唐・新羅連合軍の攻撃により高句麗滅亡
669 倭が河内鯨を唐に派遣(第七回遣唐使、こののち33年にわたり遣唐使の派遣を中断)
670 新羅が旧百済領に侵攻し、朝鮮半島で羈縻政策を進める唐と対立(羈縻政策とは、帰順した諸民族地域に羈縻州を置き、都督府の督察下での自治を認める間接統治策)
672 倭で天智天皇の後継をめぐって内戦が起こり(壬申の乱)、勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、皇后であとを継いだ持統天皇とともに唐の律令制度を導入
676 統一新羅 新羅が伎伐浦で唐軍を破り、旧百済領全域を支配し、唐の羈縻政策を排除
685 百済の渡来僧法蔵が仏教の在家信者(優婆塞)益田金鐘とともに美濃に派遣され、天武天皇の病を治療するために1127(オケラ)を煎じ、絁・綿・布をあたえられる
698 高句麗の遺民と靺鞨人が渤海を建国
701 大宝律令に医疾令27条を定める(唐令にならった医事法規。中央に典薬寮内薬司,地方に国学が設けられ,国家による医療関係職員の養成や任用、薬園の運営などが定められた)
702 倭が国号を日本と改め、粟田真人らを唐に派遣(第八回遣唐使
703   沙門法運に豊前国野40町を与える
710 奈良時代 3月、元明天皇が藤原京から平城京へ遷都(奈良時代の始まり)
717 日本が多治比県守らを唐に派遣(第九回遣唐使
吉備真備阿倍仲麻呂、遣唐留学生として渡唐
大和長岡ら請益生として渡唐して法律を学ぶ
718 留学僧弁正と唐女との子・朝元が来朝、父の俗姓の秦氏を名のる
719 唐の習俗にならい、天下の百姓に右衽(左側の襟を上にして右側に合わせる)を命じる(『続日本紀』)
720 『日本書紀』が成立
721 沙門法運の三等以上の親に宇佐君の姓を与える
元正天皇の詔により、医術に優れるとして吉宜、秦朝元(入唐僧弁正の子、唐で生まれる)、太羊甲許母が絁・絹糸・麻布・鍬を与えられる
723 興福寺内に悲田院と施薬院を開設
730 聖武天皇が光明皇后の勧めにより悲田院施薬院を開設
733 日本が多治比広成らを唐に派遣(第十回遣唐使
秦朝元が入唐判官として渡唐
山上憶良が「沈痾自哀文」を著し、「病は口より入る」という病因説を記す
735 袁晋卿皇甫東朝らが遣唐使とともに来朝、日本に帰化し、袁晋卿は大学の音博士、皇甫東朝は唐楽の演奏家として重用される
8月、大宰府管内で疫瘡(天然痘)が発生
“是の歳、年頗る稔らず。夏より冬に至るまで、天下、豌豆瘡〈俗に裳瘡と曰う〉を患む。夭くして死ぬる者多し。”(『続日本紀』天平7年)
736 唐僧道璿婆羅門僧菩提僊那林邑僧仏哲とともに来朝
737 4月、大宰府管内で疫瘡(天然痘)が発生、藤原四兄弟がすべて死去
 “是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて、夏を経て秋に渉る。公卿以下、天下の百姓、相継ぎて没死ぬること、勝げて計うべからず。近き代より以来、未だこれ有らざる也。”(『続日本紀』天平9年)
746 日本が石上乙麻呂らを遣唐使に任命するが中止(第十一回遣唐使・中止
752 日本が前遣唐大使藤原清河を迎えるため高麗大山を唐に派遣(第十二回遣唐使・遣唐判官
膳大丘、渡唐して経史を学び、奈良朝の儒学の興隆に貢献
東大寺大仏開眼供養が行われ、婆羅門僧菩提僊那が導師となる
753 正月、大伴古麻呂が唐の朝廷での朝賀の際、新羅と席次を争う(争長事件
12月、鑑真が栄叡・普照の戒師招請により来朝
756 孝謙天皇が聖武天皇の医薬僧であった法栄の功績を称え、生地一郡の役を免除する
759 日本が藤原清河を迎えるため、高元度らを唐に派遣(第十三回遣唐使・中止
日本が新羅遠征を計画
761 日本が仲石伴らを遣唐使に任命するが、船4隻の中2隻が破損したため、解任(第十四回遣唐使・中止
762 日本が唐使沈惟岳を送るため中臣鷹主らを送唐客大使に任命するが、安史の乱のため中止となり、沈惟岳は日本に帰化(第十五回遣唐使・中止
764 9月、称徳天皇の発願による百万塔陀羅尼の制作開始
770 4月、百万塔陀羅尼が完成し十大寺に分置
777 日本が小野石根らを唐に派遣(大使佐伯今毛人は病のため赴かず)(第十六回遣唐使
779 光仁天皇が「表を将たざるものの境に入ら使むべからず」という詔を出し、新羅の使節を追い返す(新羅との国交断絶
遣唐判官小野滋野を送ってきた唐使孫興進らが先例に反する儀仗を行ったとして撤回させる
日本が唐使孫興進らを送るため、布勢清直呂らを送唐客大使に任命し、唐に派遣(第十七回遣唐使
784 11月、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都
786 羽栗翼が内薬正兼侍医に任じられ、桓武天皇に近侍(翼は阿倍仲麻呂の従者として渡唐した父羽栗吉麻呂と唐人女性との間に、717年、唐で生まれた。734年、父とともに帰朝。777年、遣唐使の一員として再び渡唐した)
790 秋、京畿の30歳以下の男女に痘瘡(天然痘)が流行し、死者が出た
794 平安時代 10月、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(平安時代の始まり)
800 このころ和気広世が『薬経太素』を著す(日本最初の薬物書)
804 日本が藤原葛野麻呂らを唐に派遣(第十八回遣唐使
最澄空海霊仙らが留学僧として
渡唐
805 桓武天皇不予の際、出雲広貞が薬を奉じて功あり、爵一等を進められる
808 桓武天皇の遺命により、出雲広貞が安倍真直とともに日本各地に伝わる医方を集めて『大同類聚方』100巻を編纂(現存書は偽書)
810 留学僧霊仙が憲宗の詔により、カシミールから帰化した般若三蔵を助けて梵経の『大乗本生心地観経』を漢訳
819 新羅人・王請らの交易船が唐の貿易商人・張覚済兄弟らととに日本の奥州に漂着(円仁『入唐求法巡礼行記』)
828 新羅人・張保皐(790-841)が大宰府に来航
833 武蔵国多摩郡と入間郡の境に悲田処を設ける(布施屋の一)
835 このころ大村直福吉が、幼少時から病弱で、医薬に関心のあった仁明天皇の勅を奉じて『治瘡記』を編纂(佚、日本最初の外科書)
これ以前、九州に続命院を開設(布施屋の一)
837 出羽国最上郡に済苦院を開設(布施屋の一)
838 日本が藤原常嗣や円仁らを唐に派遣(第十九回遣唐使
医術上の疑義を請問するため、遣唐使とともに菅原梶成を唐に派遣(『文徳実録』仁寿三年六月)
843 菅原梶成が鍼博士に任ぜられる
844 相模国高座郡と愛甲郡に救急院を開設(布施屋の一)
847 円仁が新羅人・金珍らの商船に乗って帰朝
859   貞観年間(859~877)、出雲広貞の子菅原岑嗣(793~870)が、清和天皇の勅を奉じ、物部広泉、当麻鴨継、大神庸主らとともに『金蘭方』を編纂(現存書は偽書)
860   物部広泉没(日本最初の養生法の専門書『撰養要訣』(佚)の著あり)
861   8月、赤痢が流行し、10歳以下の死者多数(『三代実録』)
862   京と畿内外で咳逆が流行し、死者多数(『三代実録』、日本最古のインフルエンザの記録か?)
872   1月、京で咳逆が流行し、死者多数、渤海人が伝えたという
880   唐人・張蒙の商船が一切経の欠本120巻を齎す
885   大宰府に対し、貴族の家使や地元の吏民らが唐物を私買することを禁じる令を下す
891   このころ藤原佐世が宇多天皇の勅命により、当時日本にあった漢籍16,790巻を40部門1579部に分類した『日本国見在書目録』を編纂
892   後百済   甄萱が後百済を建国
893 唐人・王訥が在唐僧中瓘からの唐の衰退の知らせを伝える(『菅家文書』)
894 日本が菅原道真を遣唐大使に任命するが中止(第二十回遣唐使・中止
901 後高句麗 弓裔が後高句麗を建国
903 8月、藤原時平が唐物の私買を禁じる太政官符を出す
907 五代十国時代 節度使朱全忠が唐昭宗を弑し、汴京を都として後梁を建国(唐の滅亡
918 後高句麗で王建が王位を奪い、高麗を建国
醍醐天皇の侍医で権医博士の深根輔仁が勅を奉じて『本草和名』2巻を撰進する
922 後百済から使節が来朝するが、通交を拒否
926 渤海が契丹族に滅ぼされる
929 後百済から再び使節が来朝するが、通交を拒否
934 このころ源順が『倭名類聚抄』を著す(第3巻に疾病の和名と漢名を列挙、現存する日本最古の病名リスト)
935   高麗が新羅を滅ぼす
936 高麗 高麗が後百済を滅ぼし、朝鮮半島を再統一
7月、呉越人蒋承勳、季盈張らが来航
937 高麗から使節が来朝するが、通交を拒否
939 日本で平将門の乱が起こる
高麗から再び使節が来朝するが、通交を拒否
947 呉越王佐の使者として蒋袞らが来朝、左大臣藤原実頼が返書を送る(『本朝文粋』巻六)
951 和気時雨が外祖父で典薬頭の宮利名の縁で医術を修め、この年、典薬頭に任ぜられる(医家和気家の始まり)
953 呉越王弘俶の使者として蒋承勳が来朝、右大臣藤原師輔が返書を送る(『本朝文粋』巻七)
日延が天台山に経典を届けるため呉越国に渡る
957 呉越国持礼使盛徳言が来朝
日延が呉越王弘俶が作った八万四千金銅宝篋印塔をもって帰朝(「銭弘俶八万四千塔」奈良国立博物館蔵)
959 呉越国持礼使盛徳言が再び来朝
8月、首が腫れる福来病が発生(『日本紀略』、耳下腺炎、おたふく風か?)
960 北宋  
983 8月、奝然が宋商陳仁爽、徐仁満らの帰舶に便乗して入宋
12月、奝然が宋太宗に拝謁して、王年代紀、職員令、鄭氏注孝経一巻、越王孝経新義第十五一巻などを献上、印本大蔵経(開宝勅版大蔵経)や紫衣を賜わり、法済大師の号を授けられる
984 11月、丹波康頼(912~995)が隋の巣元方の『病源候論』など隋唐の方書百余家の論をもとに『医心方』30巻を編纂、この年、円融上皇に奏進(現存する日本最古の医学全書、仏教の影響も受け、所々に療病の符咒を挙げる。『丹波氏系図』によれば、康頼は後漢の霊帝の末裔、康頼以降、丹波氏は和気氏と並んで典薬頭を世襲)
986 7月、奝然が宋商鄭仁徳の舶によって帰朝
988 正月、源信が『往生要集』を宋商朱仁徳と宋僧斉隠に託し、宋に送る
998 夏から冬にかけて疫瘡(麻診はしか)が流行、京師で多くの男女が死亡(『日本紀略』)
1003 8月、源信僧都の弟子・寂昭が師に託された疑問二十七条を携えて入宋(→比叡山安海の逸話)
1004 寂昭が宋の真宗に拝謁、紫方袍を賜わり、円通大師の号を授けられる
1009 12月、中宮(一条天皇の皇后である道長の娘彰子)の安産を祈るため、勅願により千部の法華経を摺る(『御堂関白記』摺供養のはじまり、奝然が印本大蔵経を齎したことと関係?)
1034 寂昭が杭州清涼山の麓で遷化
1047 筑前の人清原守武が宋への密航が発覚し、貿易貨物を没収され、佐渡に流される
1072 成尋が弟子7人とともに宋商孫忠の舶により入宋
成尋が神宗に拝謁し、天台・真言の経典六百余巻を献上、紫袈裟衫衣裙を賜わり、善慧大師の号を授けられる(→神宗の勅を奉じた雨乞いの逸話)
1073 僧成尋の弟子5人が宋僧悟本とともに宋商孫忠の舶により帰朝、宋神宗の御筆文書と金泥法華経などを献じる
1078 宋神宗の御筆文書の表現をめぐって議が重ねられたため、この年ようやく通事僧仲回を宋に派遣
「唐朝與日本和親久絕,不貢朝物。今日頻有此事,人以成狐疑。」(『百錬抄』承暦二年十月廿五日条)
1080 宋商孫忠が越前敦賀に入港し、明州の牒状を伝える
1081 丹波雅忠が晋・唐の方書の救急方を摘録し『医略抄』を著す(丹波雅忠は丹波康頼の曽孫、丹波忠明の長男で、日本扁鵲と呼ばれ、高麗王・文宗から医師派遣の招請があった際、その候補にも上がった)
1091 大宰権帥藤原伊房が私的に僧明範を契丹に派遣し、交易を行う(のち罪に問われ、位一級を貶される)
1107 大観年間 (1107~10)、宋の徽宗の勅命により、陳師文・裴完元・陳承らが処方箋集『和剤局方』5巻を編纂(中世日本でも多くの医家が利用)
1116 宋商孫俊明、鄭清らが牒状を伝える
1125  
1127 南宋 欽宗が金によって北方に拉致され、北宋が滅亡(靖康の変
1150 宋商劉文仲が来航
1158 8月、平清盛、大宰大弐となる
1167 重源が入宋
1168 4月、栄西が入宋し、9月帰朝(第一回入宋)
1172 9月、明州の刺使から方物と牒書が届く
1173 3月、平清盛が明州の刺使に返牒と砂金百両などを送る
1181 12月、平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討(南都焼討
1185 鎌倉時代 3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぶ
8月、重源と宋人陳和卿らの大仏修復が完了し、開眼供養会が開かれる
1187 栄西が入宋し(第二回入宋)
1189 摂津三宝寺の大日能忍が『偽山大円禅師警策』を開版(禅籍開版の嚆矢
1191 栄西が臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受けて帰朝、日本の禅宗の始祖となる
1193 7月、後白河法皇が宋銭通用禁止令を出す
1199 4月、俊芿が入宋(秦里封国王の使者の印度僧との梵字通訳の逸話
1211 俊芿が帰朝、仏教などの書籍2013巻を齎す
1214 栄西が源実朝に「茶徳を誉めるところの書」一巻を献上(『喫茶養生記』か?)
1223 3月、道元が入宋、随行した加藤景正は宋で窯業を学び、瀬戸焼の開祖となり、木下道正は解毒丸の製法を伝える
1227   道元が帰朝、日本曹洞宗の始祖となる
1234   金の首都開封がモンゴルの攻撃で陥落し、金が滅亡
1235 円爾が入宋、随行した満田弥三右衛門は宋で唐織を学び、博多織を始める
1241 円爾が帰朝、多くの儒教経典を含む書籍数千巻を齎し、普門院に置く(大道一以『普門院経論章疏語録儒書等目録』)
1243 忍性が奈良北郊の北山の地に、日本最古のハンセン病患者看護・救済施設である北山十八間戸を開設
1245 泉涌寺で『仏制比丘六物図』が開版される(宋・元槧本を復刻する唐様版のはじまり
1246 宋僧蘭渓道隆が来朝(中国禅僧の来朝の嚆矢)
1247 南宋の宋慈が『洗冤録』を著す(世界初の本格的な法医学書)
1253 11月、北条時頼が建長寺を建立し、蘭渓道隆を開山第一祖とする
1260 宋僧兀庵普寧が来朝
1262 10月、北条時頼が兀庵普寧に師事し、その印可を得る
1269 宋僧大休正念が来朝1271宋僧西澗士曇が来朝
1274 10月、モンゴルの第一回日本遠征(文永の役
1275 温州の雁蕩山能仁寺に避乱していたた無学祖元が、元軍を前に臨刃偈を詠み、難を逃れる
1276 正月、モンゴルのバヤンが南宋の都臨安を無血開城させる
1278   北条時宗の発願により鎌倉極楽寺の忍性が桑ヶ谷療養所を開設(20年間に46,800人を治療)
1279


3月、崖山の戦いで南宋最後の皇帝趙昺が元軍に敗れて入水、南宋滅亡
5月、北条時宗の招請を受け、宋僧無学祖元が来朝
1281 5月、モンゴルの第二回日本遠征(弘安の役
1282 11月、北条時宗が円覚寺を建立し、無学祖元を開山第一祖とする
1299 元の成宗が一山一寧を日本に派遣(その後、日本に帰化し、初めて宋学を伝える
1303 梶原性全がかな交じり文による衆生向けの医書『頓医抄』50巻を著す
1305 龍山徳見が入元
1307 雪村友梅が入元するが、倭寇が慶元を焼き払ったため間諜と見なされ、逮捕される(以後22年に渡って元に滞在し、五山文学の開祖となる)
1315 梶原性全が漢文による子孫のための秘伝書『万安方』62巻を著す
1322 虎関師錬が日本初の仏教通史『元亨釈書』30巻を朝廷に上呈
1325 秋、鎌倉幕府が建長寺修復のため元に貿易船を派遣(建長寺船
中巌円月が渡元
1326 北条高時の招請により清拙正澄が来朝し、百丈清規を伝える
1329 明極楚俊竺僊梵仙が来朝
1336 足利尊氏が武家法『建武式目』を発布(茶会での四種十服茶が禁止される)
1338












南北朝時代 足利尊氏が征夷大将軍に任じられる
1342 8月、室町幕府が天龍寺造営のため博多商人の至本(国籍は不明)を綱司(船長)として元に貿易船を派遣(天龍寺船
1349 龍山徳見が46年ぶりに帰朝、ともに来朝した林浄因は帰化して塩瀬に改姓し、饅頭屋を開業
1367 7月、福州から雕工の陳孟千陳伯寿2人が元末の混乱を避け来朝(『空華日工集』応安三年九月廿三日条)
元から来朝した雕工の陳孟栄が『禅林類聚』20巻を覆刻
1368
正月、朱元璋が金陵で即位し、国号を明とする
11月、明太祖が日本に使節を派遣するが、征西府の懐良親王はこれを拒否
1369 3月、明太祖が倭寇の取り締まりを求めるため、再び日本に使節を派遣、懐良親王は使節の7名の中、楊載と呉文華を除く5名を殺害
竹田昌慶、明に渡り、金翁道士から医術を学び、道士の娘と結婚。明の太祖の皇后の難産を助け,その功により安国公に封じられる
1370 3月、明太祖が倭寇の取り締まりを求めるため、三度日本に使節を派遣、使者趙佚の説得により、翌年懐良親王は僧祖来を明に派遣し、明人70余人を送還
福建莆田県から来朝した雕工の兪良甫が『月江和尚語録』を開版(以後、25年にわたり私財を費やして多数の禅籍・漢籍を開版)
1371 春屋妙葩が元から来朝した雕工を使い『宗鏡録』100巻を覆刻(このころ、入元僧が伝えた禅籍の覆刻が盛んに行われる)
1373 5月、明太祖が帰国する祖来とともに仲猷祖闡と無逸克勤を派遣、翌月、征西府に阻まれることなく京都で幕府と交渉に当たる
1378   竹田昌慶、明から医書,銅人形などをたずさえて帰国。足利義満の侍医となる
1380   竹田昌慶、法印に叙せられる(医師竹田家の祖、竹田明室
1392 李氏朝鮮 室町時代
李成桂が王位を簒奪し、李氏朝鮮を建国
10月、南朝の後亀山天皇が北朝第6代の小松天皇に譲位(南北合一
1401 足利義満が明に正使祖阿、副使肥富を派遣
1402 明の惠帝が祖阿らの帰朝の際、僧道彛天倫一庵一如を日本に派遣
1403 2月、足利義満が明使の帰国の際、堅中圭密を正使、梵雲明空の2僧と通事徐本元を明に派遣
1404 明の成祖が圭密らの帰国の際、日本に居任らの使節を派遣、勘合貿易に関する条約(永楽条約)が締結され、7月、足利義満が僧明室梵亮らを明に派遣(第一期勘合貿易
1411 2月、明の成祖が使節王進を日本に派遣するが、足利義持は使節の入京を拒否
1412 竹田善慶が後小松天皇の病を治し、法眼に叙せられる
1419 6月、明の成祖が使節呂淵を日本に派遣するが、足利義持は使節の入京を拒否(以後、10年にわたり日明の通交断絶)
1421 竹田善慶が法印に叙せられ、治部卿に任ぜられる(竹田善祐
1433 6月、足利義教が派遣した天龍寺の僧龍室道淵(寧波出身)を正使とする使節が北京に到着、明との通交再開(第二期勘合貿易
1467










戦国時代










5月、応仁の乱が起る
雪舟
が乗った第4次遣明船が明に到着
第4次遣明使の通事が、もと寧波の者で、幼少の時倭寇に拉致され、日本に売られたことを語る(『明史』日本伝)
1468 竹田定盛(昭慶)、将軍足利義政の病を治し、法印に叙せられる(謡曲「善界」の作者)
1473 桂庵玄樹が帰朝、明で学んだ朱子学の普及に努め、薩南学派の祖となる
1487
長享元年
田代三喜が明に渡り、僧医月湖に師事し、金元代の李東垣,朱丹渓の医方を伝える
1496

3月、第7次遣明使の一行が山東省済寧で人を殺す(済寧事件
1498
明応7年
田代三喜が明より帰国、宋医方に変えて金・元代の李東垣・朱震亨の医学を唱導
1508 坂浄運が曾祖父坂浄秀の『鴻宝秘要抄』を増補した『続添鴻宝秘要抄』を出版(浄運は明応年間(1492-1501)明に渡り、張仲景の『傷寒論』を学び、帰国後は足利義政や後柏原天皇の侍医となり、治部卿法印に叙せられた)
1513 6月、伊勢松坂の五郎太夫祥瑞が帰朝、明で学んだ染付陶器の技法を伝える
1523 大内義興の正使謙道宗設は、後から到着した細川高国の正使鸞岡瑞佐と明人宋素卿が寧波の市舶司に賄賂を贈り,上位の待遇をえたことに憤激し、瑞佐を殺害、宋素卿を追って寧波の沿道で放火狼藉を行う(寧波の乱
1531
享禄4
田代三喜が足利学校に在籍していた曲直瀬道三と出会い、李・朱学派の医を伝える
1537
天文6
2月、田代三喜没(日本における李・朱学派の開祖となる)
1539 吉田宗桂(意安)が使僧策彦に従って明に渡る
1540 王直が浙江総督朱紈の取締りを逃れ、五島列島に移る
1542 王直松浦隆信の招きで、平戸に移る
1543 8月、王直(五峯)がポルトガル人とともに種子島に漂着(鉄砲伝来
1546
天文15
曲直瀬道三が京にもどり、田代三喜に学んだ李・朱医学を唱導し、天下の医風を一変させる
1547 4月、和気明親(半井明親)没(明親は永正年間(1504-21)に明に渡り、正徳帝の疾患の治療に関わったという)
1550 ポルトガルの商船が平戸に来航
1556 浙江総督の胡宗憲王直を召還するため、寧波の諸生蒋洲、陳可願を豊後の大友義鎮のもとに派遣
   
1568 安土桃山時代 織田信長が入京
1592 3月、豊臣秀吉が16万の軍を朝鮮に派兵することを決め、4月、宗義智と小西行長の率いる第一軍が釜山に上陸(文禄の役
1598 2月、秀吉が朝鮮南四道を奪うため、再び14万の軍を朝鮮に派兵(慶長の役
8月、秀吉が死去し、11月、島津氏の撤兵を最後として、朝鮮出兵が終了
1600 吉田宗桂(意安)がが使僧策彦に従って再び明に渡る
  関ヶ原の戦いで豊臣家が敗北
1603 江戸時代
2月、徳川家康が江戸に幕府を開く
家康が小笠原爲宗を初代の長崎奉行に任命
1604 明人馮六を唐通事に任命(唐通事林長右衛門の祖)
1624 鄭成功が平戸に生まれる(父は鄭芝龍、母は日本人田川氏の娘)
長崎に来航する南京船の船主らが海上往来の平安を祈願し、興福寺を創建(南京寺)
1627 馬栄宇を唐通事に任命(中山太郎兵衛の祖)
陳明德が長崎に渡り、穎川入德と名を改めて医業を行う
1628 長崎に来航する福建省漳州船の船主らが、陳冲一(唐通事穎川藤右衛門家の祖)を檀越の頭人として福済寺を創建(漳州寺)
1629 長崎に来航する福建省福州船の船主らが、林楚玉(唐通事林仁兵衛家の祖)を檀越の頭人として崇福寺を創建(福州寺)
1630 陳九官を唐通事に任命(穎川官兵衛の祖)
1635 幕府が対外貿易港を長崎一港に制限
長崎在住の明人の裁判を行うために、欧陽雲台、何三官、江七官、張三官、何八官、陳奕山の六人を年行事に任命
1638   長崎の権現山山頂に野母遠見番所を設置
1644     明が滅亡
1645 唐王に仕えた崔芝が日本に使節を派遣し、援軍を請う(日本乞師
1654 7月、隠元隆琦が長崎に渡来
1659 隠元隆琦が宇治に寺地を与えられ、黄檗山萬福寺を創建
朱舜水が長崎に7度目の渡来
1661 鄭氏政権 鄭成功がオランダ人が拠っていたゼーランディア城を落とし、台湾に鄭氏政権を建てる
1665 7月、朱舜水が徳川光圀に招かれ、水戸藩の江戸藩邸に到着
1682 4月、朱舜水
1683
鄭克塽が清軍に降伏、台湾の鄭氏政権が消滅
1685 長崎での貿易の総額に制限を設ける
1688 8月、長崎に来航する船数に制限を設ける
1689 4月、唐人屋敷が開設
1701 3月、北山道長(字は寿安、号は友松)没(唐通事馬栄宇の子、大坂で医業を行い、多くの著述を残した)
1709 新井白石が幕府に外国貿易に関する建言を上書
1715 新井白石の建議に基づき、清船は30隻、貿易銀高6000貫、オランダ船は2隻、貿易銀高3000貫に制限し、信牌の制を設ける(海舶互市新例
1716 長崎の聖堂に唐韻勤学会を設置
1720 伊孚九が幕府の要請で良馬2匹を届けるため来日、南宗画に秀で、池大雅、与謝蕪村らに影響を与える
1721 6月、蘇州の医師陳振先が来崎、近郷の山野を跋渉し、薬草162種を集めて効能書を作る
1722 深見玄岱(高天漪)没(唐通事高大誦の子、黄檗僧独立性易に学んで儒学、書道、医学に通じ、新井白石の推挙で幕府儒官となった)
1725 2月、福建汀州府の医師朱子章が来崎、
1731 12月、西洋画の影響を受けて発達した写生画の大家沈南蘋が来日、日本に南蘋派と呼ばれる写生画が起こり、円山応挙らに影響を与える
1803 医師胡兆新が来崎、大田南畝が幕命により薬方を学ぶ
   
   
1868 明治時代 1月、王政復古の大号令が発せられる(明治維新)
   
   
   
   
   
   
1894 8月、日本が清国に宣戦布告(日清戦争
1895







4月、日清講和条約調印、台湾・澎湖諸島が日本に割譲される
1897 大韓帝国 10月、朝鮮国王である高宗が皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改める
   
1910   8月、「韓国併合ニ関スル条約」に基づき日本が韓国を統治下に置く(日韓併合
1912

中華民国


大正時代


中華民国が建国
   
  昭和時代
 
   
   
   
1945          
           
       
       
           
       

参考資料

  1. 北京中医学院主編・夏三郎訳『中国医学史講義』(燎原 1974年)→国立国会図書館デジタルコレクション

 

コメント