16世紀、ヨーロッパで軍事革命(Military Revolution)が起こりました。戦いの主役が中世の騎士から火器を持つ兵へと変わったのです。これを可能にしたのが、中国で発明された火薬でした。では、火薬はいつ発明され、どのように世界に広まっていったのでしょうか。
“失敗は成功の母なり”といいますが、火薬の発明も思わぬ失敗から始まったようです。五代から北宋時代に編まれたと思われる『真元妙道要略』という道家の書には、不老不死の霊薬を作る際の失敗例が数多く挙げられていますが、その中にこんな一節があります。
硫黄、雄黃(硫化ヒ素)、硝石にハチミツをいっしょに熱したために、炎が出て手や顔に火傷を負い、家まで丸焼けにした者がいる。
このときの燃料はハチミツでしたが、酸化剤(硝石)、燃焼促進剤(硫黄)、燃料(木炭)の混合によって爆発性を持つ黒色火薬は、こうして発見されました。北方の異民族との抗争が続いた宋代、火薬は一早く兵器として実用化されました。宋代の軍事書『武経総要』には、矢の先に火薬をつけた「火箭」が紹介されています。金代になると、「震天雷」という爆弾も登場します。これは鉄の容器に火薬を詰めたもので、点火すると雷のような爆音が百里(約50Km)に響きわたり、半畝(約250㎡)の地を焼き払い、鉄の鎧も貫いたといいます。『金史』によれば、1232年、モンゴルが金の都汴京を攻めたとき、金軍はこの「震天雷」を使って都城を守ったといいます。
13世紀、火薬はイスラム諸国に伝わり、十字軍を苦しめました。その後、アラビア語文献のラテン語訳を通じて、ヨーロッパにも火薬の製法が伝わり、14世紀にはドイツの修道僧シュワルツ(Berthold Schwarz)が黒色火薬の製造に成功しました。
日本の歴史には二度、「鉄炮」の名で火薬を使った兵器が登場します。
最初は元寇の際にモンゴル軍が使用した「てつはう(鉄砲)」。元寇での八幡大菩薩の霊験を記した『八幡愚童訓』によれば、モンゴル軍は逃亡の際、この「てつはう」を飛ばし、その噴煙と轟音で日本の武士たちを呆然とさせたといいます。
二度目は、種子島への「鉄炮」の伝来。1543年、ポルトガル船が種子島宇に漂着すると、島主の種子島時堯は「鉄炮」2丁を買い取り、家臣に命じてその製造法や火薬の調合法を調べさせました。その知らせは本土にも伝わり、堺の商人・橘屋又三郎は種子島を訪れてその製法を学び、堺で鉄炮の製造・販売を始めました。すると日本にも軍事革命が起こり、戦いの主役は騎馬武者から足軽鉄炮隊へと移ったのです。
注
- (宋)曾公亮・丁度ら編『武經總要前集』巻十三
有火箭,施火藥於箭首,弓弩通用之。其傅藥輕重,以弓力為準。 - 『金史』赤盞合喜列傳
其守城之具有火砲名「震天雷」者,鐵礶盛藥,以火點之,砲起火發,其聲如雷,聞百里外,所爇圍半畝之上,火點著甲鐵皆透。 - 『八幡愚童訓』
大将軍高所に上がりて、引くべきには逃げ鼓を打ち、かくべきには攻め鼓を叩くに従って振る舞う。逃ぐる時にはてつはう(鉄炮)を飛ばして暗くなし、鳴る音おびただしく響きければ、心を迷わし、肝をけし、目くれ耳なりて呆然として東西をうしないけり。 - 南浦文之「鉄炮記」(『南浦文集』巻之上)
和泉堺に橘屋又三郎という者あり。商客の徒なり。我が嶋に寓止する一、二年にして、鉄炮を学び殆ど熟す。帰旋の後、人皆な名いはずして、呼んで鉄炮又と曰ふ。然ふして後畿内の近邦、皆伝へて之を習ふ。翅畿内・関西の得て之を学ぶのみに非ず、関東も亦た然かり。
参考文献
- 岡田登『中国における黒色火薬,火薬兵器,花火の起源』(采華書林 1979年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 洞富雄『鉄砲伝来記』(白揚社、1934年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 平山武章『鉄砲伝来記』(八重岳書房, 1969年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 藤田達夫『戦国日本の軍事革命』(中公新書 2022年)
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