〔コラム〕日本の出版

日中交流の史跡と文化
活字でかなの連綿体を美しく再現した嵯峨本『伊勢物語』(慶長13年(1608年)国立国会図書館蔵)

 中国と日本の印刷はいずれも仏教の必要性から発展したものでした。
 しかし中国では、五代十国時代になると、儒教経典が国家事業として出版され、宋代には民間の出版業が発展し、書籍の量産化や商品化が一挙に進んでいました。
 では、日本はどうだったのでしょうか。平安時代の藤原道長の日記に、印刷に関するこんな記事が登場します。

 寛弘六年(1009年)十二月十四日、中宮(一条天皇の皇后である道長の娘彰子)の御産のため願を立て、数体の等身大の仏像を造りはじめた。内裏では勅願により千部の法華経を摺りはじめた。(『御堂関白記』)

 仏の加護を求めて写経の代わりに経典を印刷することを摺経すりぎょうといいます。百万塔陀羅尼の印刷から200年以上が過ぎた平安時代でも、印刷の主な用途はこの摺経だったのです。
 鎌倉時代になると、書籍の本格的な出版が始まりました。しかし、そのほとんどは仏教関係の書籍で、版木を作るのも専門の刻工ではなく、僧侶や仏師たちでした。
 室町時代になると、日本の出版は一時活況を呈するようになります。14世紀半ば、元末の戦火を避けて、多くの刻工たちが日本に渡ってきたのです。中原師守なかはらの もろもりの日記によれば、元朝が滅亡する前年の1367年には、一度に8人もの刻工が来日したといいます。

 貞治六年(1367年)七月廿一日、今日唐人八人が嵯峨に着いた。これはある僧が去年唐に渡り、日本に渡らせた唐人たちで、版木を作る者たちである。(『師守記もろもりき』)

 当時来日した刻工は30人以上に上り、京都五山の禅寺に招かれ、五山版と呼ばれる禅籍や漢籍の覆刻に当たりました。しかし当時の日本は出版業が未発達だったため、刻工たちの暮らしは楽ではなかったようです。なかには生活費を稼ぐために人の原稿を無断で出版してしまう者もいたらしく、被害にあった義堂周信は日記の中でこう不満を述べています。

 応安八年(1375年)四月十六日‥‥この刊本(無断で出版された『貞和集』)は私が刪訂する前の草稿である。どこかの刻工が利を得ようと勝手に書き写し出版した。誤字や脱字があるばかりでなく、篇次も乱れ、誤りを上げればきりがない。(『空華日用工夫略集くうげにちようくぶうりゃくしゅう』)

 16世紀末になると、日本の出版に一大転機が訪れます。朝鮮から活版印刷の技術がもたらされたのです。朝鮮の都漢城には鋳字所と呼ばれる官営の印刷所があり、金属活字を使った活版印刷が行われていました。1592年、秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)で漢城を占領した宇喜多秀家らは、この印刷所にあった金属活字や印刷機を秀吉に送ります。秀吉はこれを朝廷に献上し、1593年、後陽成天皇はこの朝鮮の活字印刷を参考に活字版『古文孝経』を出版しました。天皇はその後も活字を使った出版を続け、これを契機として、16世紀末から17世紀初めにかけて、芸術性の高い多くの活字本が出版されました。かなの連綿体(つづけ字)を活字で美しく再現した嵯峨本が出版されたのもこの時期です。
 ところが、江戸時代になり、民間の印刷業が盛んになると、再び木版印刷が主流を占めるようになりました。活版印刷は毎回活字を組み替えて印刷するため、本の売れ行きがよくても増刷することができません。一方、木版印刷は版木が残るのでいくらでも増刷できますし、ルビや挿絵も簡単に加えることできます。こうして日本では、江戸時代を通じて、附訓本や挿絵本、さらに浮世絵など、意匠の凝った木版印刷が発展することになったのです。
 東京都文京区にある印刷博物館には、世界や日本の印刷の歴史が展示されています。両国にある江戸東京博物館には、江戸時代の書籍や浮世絵の出版から販売までのようすが展示されています。

印刷博物館
〒112-8531 東京都文京区水道1丁目3番3号 TOPPAN小石川

江戸東京博物館(大規模改修のため現在休館中)
〒130-0015 東京都墨田区横網1-4-1

 ▼版木を彫る職人(十返舎一九画『的中地本問屋あたりやしたぢほんどいや』1802年刊 東京都中央図書館蔵)
▼紙を摺る職人(十返舎一九画『的中地本問屋あたりやしたぢほんどいや』1802年刊 東京都中央図書館蔵)
▼丁合をとる職人(十返舎一九画『的中地本問屋あたりやしたぢほんどいや』1802年刊 東京都中央図書館蔵)
▼天地を裁ち揃える職人(十返舎一九画『的中地本問屋あたりやしたぢほんどいや』1802年刊 東京都中央図書館蔵)
▼草紙を綴じる職人(十返舎一九画『的中地本問屋あたりやしたぢほんどいや』1802年刊 東京都中央図書館蔵)

 

日本印刷・出版関連年表

西暦 和暦 出来事
     
986 寛和2 奝然(938~1016)が宋の太宗から北宋版『一切経』を賜って日本への帰途につき、途中でインドの優填王が造立したという釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて帰国
1009 寛弘6 12月14日、中宮(彰子)御産間立願数躰等身御佛造初、又大内御願千部法華経摺初。(藤原道長『御堂関白記』)
1080 承暦4 『法華経』巻二(同年の墨書紀年あり)
1088 寛治2 『成唯識論』(奈良の学問僧のテキスト)
1091 寛治5 『孔雀明王経』下巻(同年の墨書紀年あり 大東急記念文庫蔵)
1119 元永2 『成唯識論述記』(奈良の学問僧のテキスト)
1162 応保2 摺仏毘沙門天像(同年の墨書紀年あり)
1283 弘安6 『伝心法要』が出版される(初期の五山版)
1321 元亨元 『黒谷上人語燈録』(ひらがなを付した最古の版本)
1325 正中2 『寒山詩』(漢籍最古の出版物)
1367 貞治6 (7月21日)今日、唐人八人付嵯峨、是爲菩薩去年渡唐渡日本唐人也。形木開之輩也。(中原『師守記』)
1370 応安3 (9月22日)唐人刮字工陳孟千、陳伯寿二人来、福州南台橋人也。丁未年(貞治六年)七月到岸。大元失国、今皇帝改国爲大明。(『空華日工集』)
1375 応安8 (4月16日)書「新刊『貞和集』后」。即少室所藏本也。曰:此書乃余貞和間二十三歲在京師龜峰所撰諸祖偈集也。其偈初數千首,後刪成三卷,共收一千五百首,仍命曰『貞和集』。而假筆向陽谷者楷書一本,欲鏤諸梓而流通之。會戊戌春遽爾為祝融氏所奪,其本遂成烏有矣。今此印本乃未删以前藁本也。不知何處俗工鬻利者,妄寫且刊。烏焉成馬,不特成馬,或脫一字,或漏一字,或全篇失次,其錯誤不可勝言。余適欲重加校讎改刊,未暇也。今承興國室翁命俾整理兹編,不免轍加塗竄,遇其疑者則但加朱點以俟好本也。噫,根銀妄改,千古貽笑。余恐它日與彼妄刊者併案。(『空華老師日用工夫略集』(正徳3年(1713年))→図書寮文庫)(『訓注空華日工集』→国立国会図書館デジタルコレクション
     

参考資料

  1. 木宮泰彦『日本古印刷文化史』(冨山房 1932年)
  2. 諏訪春雄『出版事始 : 江戸の本(江戸シリーズ 11)』(毎日新聞社 1978年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  3. 川瀬一馬『入門講話日本出版文化史(エディター叢書33)』(日本エディタースクール出版部 1983年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  4. 張秀民著・広山秀則訳『中国の印刷術:その歴史的発展と影響』(関出版 1960年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  5. 禿祐祥「第八章 経典の摺写供養」(『東洋印刷史序説』平楽寺書店 1951年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 川瀬一馬「五山版の刻工について」(『書誌学』第17号 1969年11月)→国立国会図書館デジタルコレクション
  7. 蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集:中世禅僧の生活と文学』(思文閣出版 1982年)→国立国会図書館デジタルコレクション

 

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