【コラム】浮世草子『世間学者気質』と黄檗山萬福寺

日中交流の史跡と文化
黄檗山萬福寺開山堂(京都宇治)

鈴木靖

 岡島冠山が京都に移り、唐話の教本を出版すると、京都でも中国語ブームが巻き起こりました。明和5年(1768)に出版された浮世草子『世間学者気質せけんがくしゃかたぎ』には、こうした中国語ブームを象徴するような人物が登場します。人物の名前は徳太郎。京都の商人布袋屋福右衛門の一人息子ですが、商売にはまったく興味なく、詩賦作文を好む心から唐好とうすき(中国趣味)になったという人物です。
 下の図は、敷瓦しきがわらに丸柱、朱塗りのれんという中国風の居間で、晋衣しんえに淵明巾という中国文人の衣裳をまとった徳太郎が、八百屋から二月の瓜を届けてもらっているところです。二月の瓜とは、唐の王建の「宮前早春」という詩の中の「二月中旬すでに瓜を進む」に由来する言葉で、季節はずれの贅沢品を意味します。
 そんな徳太郎は、とりまきにおだてられ、中国行きを思い立ちます。もともと学問好きの彼は、中国に行くために俗語(中国語の口語)の勉強も始めます。唐人仲間とのふだんの会話もこの調子。
[主]有勞來也いうろうらいや
   御大儀によう御出なされた
[客]久違得緊那きういゝてきんな大家萬福麽たいきゃわんふうも
   久しう御ぶさたつかまつった。どなたにもおかわも御ざらぬか
[主]請坐ちんそー々々。
   先下に御ざれ
   茶拿來進他さならいちんとう果子也拿來こうつうゑならい
   茶もて来てあの人にしんぜい。菓子も又もってこい。
 ところが、父・福右衛門が亡くなると、徳太郎の人生は転落の一途を辿り始めます。「親の喪は三年じゃ」と喪に服している間に、店の使用人たちはやりたい放題。喪が明けると、店は火事で焼け、妻や子も次々と病に倒れ、ついに屋敷も売り払って、五条あたりの借家住まいに。「売り家と唐様からようで書く三代目」という川柳がありますが、徳太郎はわずか二代目で身上しんしょうをつぶしてしまったのです。
 その後、残った財産で大明伝来の詩仙糖という薬菓子の商売を始めますが、看板を気取って篆書てんしょで書いたものですから、誰も読めません。やがて東国がたの浪人に強請ゆすられ、米屋への打渡し金まで奪われてしまいます。
 やけ酒に酔って芥穴あくたあな(ゴミ溜め)に落ち、はっと目が覚めてみると、ふとんの中。死んだと思った妻子も横で枕を並べて寝ています。すべては夢だったのかと、邯鄲一睡かんたんいっすいの悟りを開き、止める妻を押しのけて髪を切ろうとしたとき、本当の夢が醒め、また元の芥穴に。
 最後は、徳太郎が唐話でつぶやくところで物語は終わります。
 生死也只個一様すゑんすゑちこいやん人間総是夢也じんへんそんづうもんゑゝ
 生死も是と同じ事じゃ、人間一生すべて夢の中じゃ 

▼徳太郎唐人すがた(無跡散人『世間学者気質』明和5年(1768))〔出典〕国立国会図書館デジタルコレクション

 この徳太郎のような唐好たちにとって、中国文化の窓口になっていたのが、京都宇治にある唐寺・黄檗山萬福寺でした。
 江戸時代、海外との窓口といえば長崎が有名ですが、実はこの萬福寺も日中交流の拠点の一つでした。
  山門さんもんいずれば日本ぞ茶摘ちゃつみみうた
 江戸時代の女流俳人・菊舎尼きくしゃに がこう読んだように、茶摘み歌が響く宇治の人里とは異なり、この寺の山門の中は黄檗唐音と呼ばれる中国語が飛び交う、まさに異国でした。
 1654年、福建省の黄檗山萬福寺から弟子20人とともに日本に亡命した隠元隆琦いんげんりゅうき禅師は、1661年、この寺を開山しました。伽藍には明代の建築様式が取り入れられ、読経には唐音、儀式や法具も中国禅寺の作法に従っていました。歴代の住持の多くが中国からの渡来僧だったこともあり、その伝統はいまも受け継がれています。
 江戸時代、もう一つの中国文化への窓口だった萬福寺を訪ね、徳太郎たちがあこがれた明朝風建築の壮観と唐音の響きを楽しんでみませんか。

黄檗宗大本山萬福寺
〒611-0011 京都府宇治市五ケ庄三番割34
TEL:0774-32-3900
拝観時間:9:00-17:00(受付は16:30まで)

参考資料

  1. 博文館編輯局 校訂『気質全集』,博文館,1895. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1882651 (参照 2023-12-15)

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