中国 | 朝鮮半島 | 日本 | 西暦 | 出来事 | ||||||
高句麗 | 楽浪郡 | 帯方郡 | 百済 | 新羅 | ||||||
238 | 魏の景初3年、魏の司馬懿が公孫淵の叛乱を鎮定し、楽浪郡・帯方郡を接収 | |||||||||
蜀 | 魏 | 呉 | 239 | 魏の景初3年、倭女王が魏に使節を派遣 | ||||||
240 | 魏の正始元年、使節太守弓遵、建中校尉悌儁らが倭に派遣される | |||||||||
243 | 魏の正始4年、倭王が再び魏に使節を派遣 | |||||||||
247 | 魏の正始8年、倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼が対立、魏が塞曹掾史張政らを倭に派遣 | |||||||||
晋 | 266 | 倭が晋に方物を献じる(『晋書』) | ||||||||
311 | 晋が匈奴の劉曜に滅ぼされる(永嘉の乱) | |||||||||
五 胡 十 六 国 |
313 | 楽浪郡が高句麗に、帯方郡が韓・濊族によって滅ぼされる | ||||||||
東晋 | 317 | 司馬睿が晋朝を再興 | ||||||||
372 | 百済人久氐らが来朝し、七枝刀と七子鏡を献じる | |||||||||
391 | 倭が百済を支援するため朝鮮に派兵(『広開土王陵碑文』) | |||||||||
405 | 王仁が来朝し、『論語』や『千字文』を伝える(干支二運説)? | |||||||||
413 | 高句麗が東晋に使節を派遣し、安帝から高句麗王楽安郡公に冊封される(『三国史記』) 倭が東晋に方物を献じる(『晋書』) |
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北 魏 |
宋 | 420 | 劉裕が東晋より禅譲を受け、宋を建国 | |||||||
425 | 倭王讃が宋に司馬の曹達を派遣(『宋書』倭国伝) | |||||||||
427 | 高句麗が都を丸都(現吉林省集安市)から平壌に遷す | |||||||||
435 | 高句麗が北魏に朝貢し、都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王に冊封される(『三国史記』) | |||||||||
438 | 倭王珍が宋に使節を派遣し、安東将軍・倭国王に除せられる(『宋書』文帝紀元嘉15年) | |||||||||
443 | 倭王済が宋に使節を派遣し、安東将軍・倭国王に除せられる(『宋書』倭国伝) | |||||||||
雄略天皇 | 461 | 百済の加須利君(蓋鹵王)が弟軍君に妊婦をつけて倭に派遣、妊婦は各羅島で嶋君(のちの武寧王)を出産(『日本書紀』雄略天皇紀) | ||||||||
462 | 倭王興が宋に使節を派遣し、、安東将軍・倭国王に除せられる(『宋書』倭国伝) | |||||||||
464 | 倭が身狭村主青と檜前民使博徳を呉に派遣 | |||||||||
467 | 百済から貴信が渡来(磐余の呉の琴弾である壃手屋形麻呂の祖、呉国の人とも) | |||||||||
468 | 倭が身狭村主青と檜前民使博徳を再び呉に派遣 | |||||||||
470 | 身狭村主青と檜前民使博徳が呉から漢織・呉織・衣縫の工女を連れて帰朝 | |||||||||
471 | 稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣が造られる 各地に分散していた秦系の渡来人を集め、秦酒公に賜う(『日本書紀』雄略天皇15年) |
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475 | 百済が高句麗の攻撃を受け、都をの漢城から熊津(現公州)に遷す | |||||||||
478 | 倭王武が宋に使節を派遣し、上表文を送って高句麗の無道を弾劾(『宋書』順帝紀昇明2年、倭国伝) | |||||||||
斉 | 479 | 蕭道成が宋の順帝より禅譲を受け、斉を建国 | ||||||||
梁 | 502 | 蕭衍が斉の和帝より禅譲を受け、梁を建国 | ||||||||
503 | 百済の武寧王が倭王に銅鏡(隈田八幡宮人物画像鏡)を贈る(443年説もあり) | |||||||||
505 | 梁で五経博士を置き、州郡に学校を設ける | |||||||||
継体天皇 | 513 | 百済から五経博士の段楊爾が派遣される | ||||||||
516 | 百済が段楊爾と交替に漢高安茂を派遣 | |||||||||
522 | 大唐漢人司馬達等が渡来し、大和国高市郡坂田原に庵を結び、本尊を安置して帰依礼拝する(『扶桑略記』) | |||||||||
東魏 | 安閑天皇 | 534 | 高歓が孝静帝を擁立し、東魏を建国 | |||||||
西魏 | 535 | 宇文泰が文帝を擁立し、西魏を建国 | ||||||||
宣化天皇 | 538 | 百済が都を熊津から扶余に遷す 百済の聖明王が倭に仏教を伝える(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』など) |
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539 | このころ、梁の蕭繹繹(のちの元帝)が『職貢図』を描く | |||||||||
欽明天皇 | 540 | 欽明天皇が即位の際、幼少のころ夢のお告げにあった秦大津父を山背国紀郡深草里で見つけ、大蔵省に任じる 帰化した秦人・漢人を国郡に置き、戸籍を編纂する |
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北斉 | 550 | 高洋が北斉を建て、東魏が滅ぶ | ||||||||
552 | 欽明天皇が崇仏の可否について下問。蘇我稲目が小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺としてまつる(現向原寺) | |||||||||
553 | 蘇我稲目が勅命を奉じて王辰爾に船賦の記録をつかさどらせ、船史の姓を賜う(中国南朝系の渡来人か?) | |||||||||
北周 | 陳 | 557 | 陳霸先が梁の敬帝より禅譲を受け、陳を建国 宇文覚が北周を建て、西魏が滅ぶ |
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564 | 新羅が北斉に朝貢 | |||||||||
565 | 新羅王金真興が北斉から使持節・東夷校尉・樂浪郡公・新羅王に冊封される | |||||||||
569 | 蘇我稲目が王辰爾の甥の胆津に白猪の屯倉の管理を命じる | |||||||||
570 | 高句麗の使節が越に漂着 | |||||||||
敏達天皇 | 572 | 王辰爾が高句麗の使節がもたらした上表文(烏羽之表)を解読 | ||||||||
577 | 北周が北斉を滅ぼす | |||||||||
581 | 楊堅が隋を建国し、北周を滅ぼす | |||||||||
用明天皇 | 587 | 蘇我馬子が泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子を率いて物部守屋を誅殺(丁未の乱) | ||||||||
隋 | 崇峻天皇 | 589 | 隋が陳を滅ぼし、西晋滅亡以来273年ぶりに中国全土を統一 | |||||||
591 | 崇峻天皇が新羅討伐のため筑紫に軍を集結させる | |||||||||
592 | 崇峻天皇が蘇我馬子の命を受けた東漢直駒によって暗殺される | |||||||||
推古天皇 | 600 | 倭が新羅に出兵 倭が第一回遣隋使を派遣 |
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608 | 第二回遣隋使が派遣され、漢人の子弟が隋に留学 | |||||||||
616 | 新羅が仏像を献じる | |||||||||
唐 | 618 | 李淵が隋の恭帝から禅譲を受け、唐を建国 | ||||||||
皇極天皇 | 645 | 中大兄皇子らが蘇我入鹿を誅殺(乙巳の変) | ||||||||
孝徳天皇 | 647 | 新羅の金春秋が倭に来訪 | ||||||||
648 | 新羅の金春秋が唐に赴く | |||||||||
斉明天皇 | 656 | 新羅王金春秋が唐に援軍を求める | ||||||||
660 | 百済が唐・新羅連合軍の攻撃により滅亡 百済の鬼室福信が倭に援軍を要請 |
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天智天皇 | 663 | 倭が百済復興運動を支援するため朝鮮に派兵(白村江の戦い) | ||||||||
664 | 熊津都督府鎮将劉仁願が郭務悰らの使節を倭に派遣 | |||||||||
665 | 唐が劉徳高らの使節を倭に派遣 遣唐使を派遣 百済の百姓男女400余人を近江国神前郡に置き、田を与える |
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666 | 百済の男女2000余人を東国に置く 倭漢沙門智由が指南車を献じる |
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667 | 都を近江大津に遷す | |||||||||
668 | 高句麗が唐・新羅連合軍の攻撃により滅亡 | |||||||||
669 | 遣唐使を派遣 佐平余自信と佐平鬼室集斯ら百済の男女700余人を近江国蒲生郡に置く |
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671 | 百済から帰化した沙宅紹明(法官大輔)、余自信に大錦下、鬼室集斯(学識頭)に小錦下、答㶱春初・谷那晋首・木素貴子・憶礼福留らに大山下のの冠位を授ける(『日本書紀』天智天皇10年) | |||||||||
672 | 大海人皇子が挙兵し、大友皇子(弘文天皇)が自殺(壬申の乱)都を近江から飛鳥浄御原宮に遷す | |||||||||
675 | 肉食禁止令を発布 | |||||||||
統一新羅 | 天武天皇 | 676 | 新羅が唐の支配を排除し、朝鮮半島を統一 | |||||||
677 | 天武天皇が東漢直が犯した七つの不可を赦免する詔を出す | |||||||||
持統天皇 | 687 | 渡来した高麗人56人を常陸国に、新羅人14人を下毛野に置く | ||||||||
701 | 遣唐使を派遣 | |||||||||
716 | 遣唐使を派遣 諸国の高麗人1799人を集めて武蔵国に置く |
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725 | 漢人法麻呂に中臣志斐連の姓を下賜 | |||||||||
727 | 渤海の使者が来日 | |||||||||
732 | 遣唐使を派遣 | |||||||||
735 | 袁晋卿が遣唐使に従って渡来 | |||||||||
746 | 国公麻呂(白村江の戦いの後、倭に帰化した百済の徳率国骨富の孫)を造仏長官に任じ、東大寺盧舎那仏の造像と大仏殿建立の指揮を執らせる | |||||||||
749 | 陸奥国守の百済王敬福は陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)から大仏の鍍金料として黄金900両(約13kg)を献上(日本国内で最初の金の発見) | |||||||||
750 | 遣唐使を派遣 | |||||||||
752 | 大仏開眼供養会が開かれ、檜前忌寸らが楯伏舞を行う(『東大寺要録』巻二、供養章第三開眼供養会)1 | |||||||||
754 | 鑑真が渡来 | |||||||||
761 | 沈惟岳が第13次遣唐使とともに渡来、安禄山の乱が起ったため日本に帰化し、従五位下に叙爵される | |||||||||
766 | 法華寺での舎利会において唐楽を演奏した功労により、李元環・袁晋卿・皇甫東朝らに叙爵 | |||||||||
772 | 坂上苅田麻呂が檜前忌寸を大和国高市郡の郡司に任じることを請う上表文を奉呈(『続日本紀』光仁天皇宝亀3年) | |||||||||
778 | 袁晋卿が音博士となる | |||||||||
785 | 坂上苅田麻呂が再度上表文を奉呈(『続日本紀』) | |||||||||
815 | 万多親王・藤原園人等撰『新撰姓氏録』全30巻が完成、五畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)の1059氏族の出自と系譜を皇別・神別・諸蕃にわけて記載2 | |||||||||
注
- 「第六 楯節舞と檜前忌寸」(上田正昭『日本古代国家論究』塙書房 1968年)
- 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』(全10冊 吉川弘文館 1962年)
参考文献
- 上田正昭『帰化人』(中公新書 1965年)
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