【コラム】日中の心をつないだ通訳(作成中)

日中交流の史跡と文化
浅沼稲次郎・周恩来会談での通訳(劉徳有・林麗韞 1959年3月15日 紫光閣にて)

【コラム】日中の心をつないだ通訳

西暦 年齢   出来事
1931 0   8月、劉徳有、大連に生まれる
9月、満州事変(九・一八事変)勃発
1938 7   4月、大連霞尋常小学校(のち大連霞国民学校に改名)に入学
1944 13   4月、大連中学校に入学
1949 18   3月、大連沙河口第四完全小学校の教諭となる
1950     10月、日中友好協会設立
1951 20   3月、大連市日僑学校に転勤し、中国語を担当
1952 21 民間交流時代 5月、第一回日中民間貿易協定調印(日本代表:高良とみ、帆足計、宮腰喜助)
12月、北京の外文出版社に転勤し、『人民中国』編集部で翻訳を担当
1953 22 中国、第一次五カ年計画開始(~1957)
1月、日本政府が中国とのバーター貿易を解禁
3月、中国紅十字会と日本赤十字社・日本平和連絡会議・日中友好協会の3団体が在華日本人帰国について協議
6月、『人民中国』(日本語版)創刊
7月、朝鮮戦争で停戦協定締結
10月、第二回日中民間貿易協定調印
1954 23 7月、日本の国会議員代表団16名が北京を訪問、通訳を務める(初の外賓接待)
10月、中国紅十字会代表団が訪日(団長李徳全、副団長廖承志)(初の訪日代表団)
1955 24 6月、日本学術会議代表が訪中し、南原繁・大内兵衛と周恩来が会見。通訳は趙安博。周恩来と日本人の会見を初めて見る
8月、日本新聞放送関係訪中団と周恩来の会見の場に立ち会う台湾
10月、日本国会議員訪中団と毛沢東との通訳を務めるが、「人種」を「民族」と誤訳し、廖承志と交代
11月、憲法擁護国民連合代表団が訪中し、日中民間文化協定調印
12月、中国科学代表団(団長・郭沫若)の通訳として訪日
日本駐留米海兵隊が核ロケット砲オネストジョンの配備計画が明らかに
1956   3月、日本中国文化交流協会設立
9月、中国共産党第八回全国代表大会の同時通訳を行う
1957 26 12月、中国農業代表団(代表王震)の通訳として訪日
1958   5月、長崎で右翼による中国国旗毀損事件(長崎国旗事件)が起こり、以後約2年半、日中間の貿易が停止
1959   3月、社会党第二次訪中使節団団長の浅沼稲次郎が、北京で「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれの領土から分離されているのは、米帝国主義のためであります。米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言した際の通訳を務める
同月、山西省洪洞県の農村に8ヶ月間下放される
10月、松村謙三と周恩来の車中会談の通訳をする
1960   10月、日比谷公会堂での党首立会演説会で、浅沼稲次郎が刺殺される
1961 30 3月、アジア・アフリカ作家会議臨時大会に参加する中国作家代表団(団長巴金)の通訳として訪日
7月、有吉佐和子の依頼を受け、『世界文学』7月号に「祈祷」の翻訳を発表
10月、日中友好協会訪中団(団長黒田寿男)・日本民間教育代表団と毛沢東、周恩来との会談の通訳を務める
1962   半官半民時代 9月、松村謙三と周恩来の第二回会談
11月、高碕達之助と廖承志が北京で中日長期の総合貿易覚書に調印(LT貿易
1963   6月、『人民中国』創刊十周年の記念活動として、中国外文出版社代表団(団長羅俊)の一員として訪日
7月、第二次日中友好青年キャンプに参加し、台湾の国旗問題で長野市に抗議
1964   1月、中仏国交樹立
2月、高碕達之助没
同月、柘植秀臣(法政大学教授)と郭沫若の対談の通訳をする
4月、訪中した岡崎嘉平太と廖承志の間でLT貿易の連絡事務所の相互開設、松村謙三と廖承志の間で新聞記者交換に関するメモを交換
5月、共同通信社の岩本清と周恩来の会見の通訳をする
9月、『光明日報』記者として東京に駐在。新華社東京支社設立
10月、中国が原爆実験成功
11月、佐藤栄作内閣が発足(~1972年7月)
12月、駐日主席記者の丁拓が帰国し、新たに張紀明が着任
1965   7月、覚書貿易弁事処首席代表孫平化、『大公報』記者劉宗孟とともに創価学会青年部長秋谷栄之助と会談
1966   6月、米核潜水艦の横須賀入港の際、デモ隊とともにスローガンを唱えたと冤罪をかけられる
10月、黒田寿男、宮崎世民、三好一らが日中友好協会(正統)と称して分裂(日中友好協会分裂
1967   2月、善隣学生会館(現日中友好会館)の日中友好協会本部で暴力事件が起こる(善隣学生会館事件
7月、川口マンションから孫平化宿舎に転居
9月、台湾が光華寮を賛有する中国人留学生に立ち退きを求めて京都地裁に提訴(光華寮訴訟
1971   6月、公明党竹入義勝委員長が訪中、周恩来から国交正常化五原則を伝えられる
7月、米キッシンジャー国家安全保障問題担当補佐官が訪中
8月、松村謙三没
10月、国連総会で中国の国連代表権を認めるアルバニア案が採択される
1972     2月、ニクソン米大統領が訪中
7月、田中角栄内閣が発足
同月、蕭向前が覚書貿易弁事処東京連絡事務所主席代表に着任
同月、上海バレエ団訪日(団長孫平化・秘書唐家璇)
同月、公明党竹入義勝委員長が訪中し、田中首相に周恩来との会談記録(竹入メモ)を伝える
9月、自民党副総裁椎名悦三郎が特使として訪台
共同通信社福島慎太郎が訪中し、新華社と共同通信社のための北京―東京間専用線を開設
1974     12月、田中内閣総辞職し、三木武夫内閣発足
1976     7月、日本がフォーリン・プレス・センターを開設
10月、四人組逮捕
12月、三木武夫首相が辞任し、福田赳夫内閣発足
1978     6月、15年の記者生活を終え、北京に帰る
8月、園田直・黄華両外相が日中平和友好条約に調印
10月、鄧小平副総理が訪日し、日中平和友好条約の批准書を交換
1980     4月、唐招提寺長老森本孝順が鑑真和上像を揚州大明寺に里帰りさせる
7月、戦争で両親を失ったかこい美穂子さんが聶栄臻じょう えいしんと再会
1981     6月、中国共産党第十一期第六回中央委員会総会で「建国以来の若干の歴史問題についての決議」(歴史決議)が採択される
1982     7月、教科書検定で日中戦争の記述が外交問題となる(第一次教科書問題
1983     9月、李一氓主催の中国国際交流協会代表団に秘書長として随行訪日
1984     3月、中日友好二十一世紀委員会委員に就任
9月、中日友好二十一世紀委員会第一回会議に出席するため訪日(中国側座長:王兆国、日本側座長:石川忠雄)
1985     7月、中日友好協会代表団(団長王震)の副団長として訪日、長崎で潘鶴作「乙女の像」の除幕式に参加
8月、中曽根康弘首相が終戦記念日に靖国神社を公式参拝(靖国問題
9月、北京大学・清華大学・人民大学などの学生が抗議デモを行う
10月、中日友好二十一世紀委員会第一回会議が北京・大連で開催され、青年文化専門委員会に所属、分科会で中日青年交流センターのデザインや佐藤欣子委員の発言が問題となる
同月、『人民日報』に長編論文「珍惜艱難締造的中日友好關係」を発表
1986     10月、文部大臣藤尾正行が『文芸春秋』の対談記事で侵略戦争を弁護し、罷免される
9月、中日友好二十一世紀委員会第三回会議に出席するため訪日
1987     2月、光華寮裁判の差戻控訴審で、大阪高裁が台湾勝訴の判決
「日本を守る国民会議」(現・日本会議)が発行した『新編日本史』を中国が批判(第二次教科書問題
5月、通産省が東芝機械に共産圏向け輸出停止の行政処分(東芝機械事件
11月、中曽根内閣が総辞職し、竹下登内閣発足
中日友好二十一世紀委員会第四回会議が北京で開催される
1988     11月、中日友好二十一世紀委員会第五回会議に出席するため訪日(中国側座長が張香山に変更)、同委員会第一期終了により委員を退任
1990     8月、中日青年交流センターが落成
1992     4月、劇団四季が中国でミュージカル「李香蘭」を公演
10月、明仁天皇・皇后が訪中
11月、郭沫若生誕百周年記念活動に参加するため訪日
1994     11月、平安遷都千二百年記念活動に参加するため、孫平化とともに訪日
1995     7月、世界反ファシズム戦争勝利五十周年を記念して北京で開催された中日関係シンポジウムに出席、「目下、中日関係は極めて重要な時期を迎えている」と警鐘を鳴らす
1997     6月、中日国際シンポジウム「未来へ向けての中日関係」が北京で開催、園田直夫人から日中平和友好条約締結当時の裏話を聞く
9月、橋本龍太郎首相が訪中
2002     8月、戦争で両親を失った栫美穂子さんが洪河漕村を訪問
2005     8月、栫美穂子さんが6度目の訪中、日本軍駐屯地まで届けてくれた楊仲山さんと再会

▼善隣会館

▼「乙女の像」(長崎平和公園)

 

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