【コラム】中国農書と勤勉革命

日中交流の史跡と文化
『農業全書』の著者宮崎安貞の書斎(福岡市西区女原)

【コラム】中国農書と勤勉革命

 戦国時代が終わり、太平の世が訪れると、日本では人口の大爆発が起こりました。江戸時代初めには1200万人ほどだった人口が、100年ほどの間に3000万人以上にまで増加したのです。当時日本は人口の8割以上が農民でしたから、限りある農地をいかに活用し、人々の暮らしを保障するか。それが喫緊きっきんの課題となりました。
 同じころ、イギリスでは産業革命が起こり、機械化による労働節約型の生産革命が起こっていました。ところが日本ではこれとは逆に、限りある農地に手間暇をかけて生産を拡大させる労働集約型の生産革命が起こります。これを歴史人口学者の速水融はやみ あきら氏は勤勉革命と呼んでいます。
 勤勉革命には、生産性を高める技術と、新たな作物の知識が必要です。その手引となったのが、1697年、江戸時代前期の農学者・宮崎安貞が刊行した『農業全書』でした。
 安貞は1623年、広島浅野藩藩士・宮崎儀右衛門の次男として生まれました。父・儀右衛門は知行200石取りの山林奉行。その父から学んだ農林行政の知識が期待されてか、安貞は29歳のとき、福岡黒田藩に知行200石取りという厚遇で仕官しました。
 では、安貞はどのようにして新たな技術や知識を集めたのでしょうか。
 その第一の情報源となったのが、明の徐光啓の『農政全書』を始めとする中国の農書や本草書(植物・動物・鉱物など自然資源に関する百科事典)でした。安貞は『農業全書』の凡例で「『農政全書』を始め、唐の農書を考へ、かつ本草を窺ひ、およそ中華の農法の我国に用ひて益あるべきをゑらびて是をとれり」といい、随所に「唐の書に~」と中国の書籍を引用しています。
 しかし安貞は書物の知識だけでは満足しませんでした。30歳を過ぎたころ、せっかく手に入れた職を辞し、「山陽道より始め、畿内、伊勢、紀州の諸国を遊歴し、所々老農の説を聞」いて、より実践的な技術と知識を蓄えていったのです。
 たとえば、蕃藷。それまで日本ではヤマイモの一種であるツクネイモと考えられていましたが、安貞は中国の農書と自身の研究をもとに、こう解説しています。
「蕃藷はそのかたち大かた山のいもに似て色薄紫なり。皮うすく、内いさぎよく色白し。味山芋よりは甘く、美しき食物なり。‥‥薩摩、長崎にては琉球芋又赤芋と云ふて多くつくると見えたり。‥‥唐にてむかし此藷をいまだ作らざる国に、種子を求めて広く作りたれば、其後いか程おもき凶年にても少しも飢饉の禍なかりし。」
 琉球芋や赤芋というのは、サツマイモのこと。蕃藷とはツクネイモではなくサツマイモであり、飢饉の備えとして有用な作物であると指摘したのです。
 南米原産のサツマイモが中国に伝わったのは明代の末。1594年、閩(福建省南部)の商人・陳振竜が、スペイン植民地化のルソン島から苗を持ち帰ったのが最初といわれています。1605年、明進貢船の野国ぬぐん総管がこれを琉球に持ち帰り、そこから薩摩や長崎へと広まりました。享保の大飢饉の後、青木昆陽の上書により、幕府がその普及に乗り出したのは、1734年のこと。安貞はそれよりも30年以上も前に、こうした指摘を行っていたのです。
 安貞は農業の研究に生涯を費やし、『農業全書』が刊行されたのはその死の直前でした。面白いのは、安貞が手本とした『農政全書』が文字通り「農政」(農業政策)を行う為政者のための本だったのに対し、安貞の『農業全書』は農を生業なりわいとする農民のための本だったことです。江戸時代の勤勉革命は、為政者によるトップダウンの政策ではなく、農民自身が新たな技術や知識を共有し、手間暇かけて働くことで実現しました。その手引きとなったのが、安貞の『農業全書』だったのです。
 安貞の書斎と墓は、いまもその知行地であった福岡市西区女原みょうばるに残っています。中国と日本の農業の技術と知識を繋いだ安貞の足跡を訪ねてみてはどうでしょうか。

▼蕃藷(宮崎安貞『農業全書』巻5 山野菜之類より)
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

西暦 和暦 出来事
1623 元和9 宮崎安貞、広島浅野藩藩士・宮崎儀右衛門の次男として広島に生まれる。父・儀右衛門は知行200石取りの山林奉行
1625 寛永2 貝原楽軒
1651 慶安4 安貞、福岡藩主黒田恵之に仕える
1697 元禄10 宮崎安貞没、『農業全書』刊行
1702 15 貝原楽軒
1732 享保17 享保の大飢饉が起こる
1734 19 3月、青木昆陽、小石川養生所内に初めてサツマイモを植える
1735 20 閏3月、吹上御所でサツマイモを試作
青木昆陽、『蕃藷考』を刊行
1739 元文4 青木昆陽、幕府に召し出され、月俸10人扶持を与えれる
1747 延享4 7月、青木昆陽、評定所儒者となり、稟米150俵を賜る
1767 明和4 2月、青木昆陽、御書物奉行に移る
1769 6 10月、青木昆陽没

 

参考資料

  1. 宮崎安貞著、貝原楽軒補、土屋喬雄校訂『農業全書』(岩波文庫 1936年)→国会図書館デジタルコレクション
  2. 中村吉次郎『先覚宮崎安貞』(多摩書房 1944年)→国会図書館デジタルコレクション
  3. 「農業全書の著者 宮崎安貞」(『福岡県史料叢書 2』福岡県庶務課別室史料編纂所 1948年)→国会図書館デジタルコレクション
  4. 古島敏雄『日本農学史』(第1巻 日本評論社 1946年)→国会図書館デジタルコレクション
  5. 井浦徳「沖縄における甘藷育種史」 (農発史資料第34号 1951年)→国会図書館デジタルコレクション
  6. 小林仁『サツマイモのきた道』(古今書院 1984年)→国会図書館デジタルコレクション

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