推古天皇の歌に「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」という一句があります。「呉のまさび」とは中国の刀剣のこと。当時、最も優れた刀剣は中国製と考えられていたようです。
ヤマト王権には、天目一箇神を祖とする倭鍛冶と、百済から渡来した卓素を祖とする韓鍛冶が、ともに鍛冶部として仕えていました。701年、大宝律令が施行され、中央に八省が置かれると、兵部省の下に造兵司が置かれ、そこに編入された鍛戸が刀剣の鍛造を担うようになりました。正倉院には、このころ作られた太刀55口が所蔵されています。
これらの太刀を見てみると、いずれも刀身がまっすぐな直刀です。なかには刀と剣の中間のような鋒両刃造(刀の尖端だけが両刃となった太刀、金銀鈿荘唐大刀など)もあります。ところが平安時代になると、反りのある湾刀に変わるのです。
これは単なる形状の変化ではなく、技術革新の結果でした。鋼に焼き入れ(熱して急速に冷やすこと)をすると、マルテンサイトという組織に変化します。マルテンサイトは非常に硬いのですが、脆く折れやすいという欠点もあります。そこで焼き入れの際の冷却速度を調整できるように、焼刃土が考案されました。焼刃土というのは太刀の上に塗る粘土のことで、刃の部分には薄く、それ以外の部分には厚く塗ることで、熱した太刀を水に浸けた際、刃の部分だけが急速に冷却し、マルテンサイトに変化させることができるのです。
焼き入れをすると、焼刃土を厚く塗った地の部分は収縮するので、太刀は棟(背)の方に反ります。平安時代の初めに作られた小烏丸という太刀は、鋒両刃造なのに反りがあるという不思議な形をしていますが、これは直刀から湾刀への過渡期を示すものでしょう。
また焼刃土の厚さの違いによって、刃と地の境には美しい模様が生まれます。これを刃文といいます。こうして反りと刃文を特徴とする日本刀が誕生したのです。
平安時代の後期になると、日本刀は海外にも輸出されるようになりました。北宋の欧陽脩(1007-1072)は「日本刀歌」の中で、そのすばらしさをこう詠っています。
最近日本から宝刀が来た
越の商人が海の東で得たものだ
香木の鞘を魚の皮で覆い
真鍮と白銅の黄白が混ざりあっている
この宝刀は好事家が大金で手に入れた
佩びれば妖魔悪鬼を祓い除けるという
室町時代になると、日本刀は明との勘合貿易の重要な輸出品となりました。1483年のピーク時には一度に3万7千余本を輸出し、1432年から1547年まで11回行われた勘合貿易全体では、総計20万本に及んだといいます1。日本刀1本の売価は、明朝側の輸入規制と日本側の粗製乱造のため、最初の10貫から最後は1貫まで下落しましたが、それでも1451年には、国内で800文から1貫であった日本刀が、明では5貫で売れたといいますから、かなりの利益があったことがわかります2。
正倉院の宝物である金銀鈿荘唐大刀や、皇室の御物である小烏丸の実物は見ることはできませんが、東京上野の国立博物館や両国の刀剣博物館には、国宝や重要文化財に指定された数多くの古名刀が展示されています。
▼金銀鈿荘唐大刀(正倉院宝物).jpg)
▼小烏丸(皇室御物、八幡百里写 『小烏丸太刀之圖』文化9年(1812年))
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▼日本刀の刃文

注
- 木宮泰彦『日華文化交流史』(冨山房 1955年)p.589
- 田中健夫『倭寇と勘合貿易』(至文社 1961年)p.126→国立国会図書館デジタルコレクション
刀剣博物館
〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目12−9
参考資料
- 太田弘毅「日本刀の行方――倭寇史の一齣」(『藝林』第33巻第2号通巻第179号 1984年6月)→国立国会図書館デジタルコレクション
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