第18回 島津重豪と琉球王国

日中交流の史跡と文化
島津重豪肖像(玉里島津家蔵)

 江戸時代、長崎とともに日中交流の懸け橋となっていたのが琉球王国です。
 14世紀末、明の朝貢国となった琉球は、1609年、薩摩の侵攻を受け、その支配下に入ります。しかし薩摩がその実態を隠したために、琉球はその後も朝貢を続け、日中を結ぶ交流の懸け橋となっていました。
 この琉球で、交流の実務を担っていたのが、久米村人と呼ばれる中国系移民の子孫たちでした。彼らは長崎の唐通事とは異なり、朝貢使節の一員として中国本土を訪ねたり、「官生」(中国政府奨学生)や「勤学」(私費留学生)として留学することもできました。
一方、徳川将軍や琉球国王の代替わりには、慶賀使や謝恩使の一員として、江戸を訪ねることもできたのです。
 この琉球を通じて、中国から情報を集め、藩の文教政策に役立てたのが、薩摩藩の第8代藩主島津(しまづ)重豪(しげひで)(1745~1833)でした。
 「余、華言(中国語)を好む」と、中国語好きを公言する重豪は、自身の学習と藩の通事養成のために、22歳の頃から半世紀をかけて『南山俗語考』という中国語語彙集を編纂しました。26歳の時には、幕府から一度限りという許可を得て、長崎の唐通事や唐人屋敷を訪ねています。
 29歳の時、藩に医学院を創設した重豪は、6年後、薬草署を設置し、薬草の調査に乗り出します。屋久島や琉球に自生する植物の中には、従来の漢方では、漢名や薬効が分からないものがあったからです。重豪は、中国各地に標本を送り、鑑定を依頼することを計画します。このとき派遣されたのが、久米村人ら琉球の人びとでした。
 4年に及ぶ調査で、漢名や薬効が明らかになった植物は、図版入りの『質問本草』にまとめられました。編者には、「琉球学士呉継志」という偽名が使われました。薩摩の関与を隠すためです。
 その翌年、43歳で隠居した重豪は、51歳の時、謝恩使の一員として江戸を訪れた鄭(てい)章観(しょうかん)と蔡(さい)邦錦(ほうきん)という久米村人を、藩邸に招きました。重豪は、得意の中国語で2人と会話し、彼らが語った中国での見聞を、家臣の赤﨑(あかざき)楨幹(ていかん)に命じて、挿絵入りの『琉客談記』にまとめさせました。
 殿様といえども、海外渡航は厳禁の時代。憧れの中国の姿を語り聞かせてくれたのも、琉球の人びとだったのです。

▼「琉人山東行路」(赤﨑楨幹『琉客談記』阪巻・宝玲文庫 ハワイ大学所蔵)

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