【コラム】バイリンガル狂言

田中美有・若尾莉奈

 倭寇が猖獗を極めていた室町時代、日本の各地には、中国などから拉致されてきた人々が、労働力として駆使されていました。1420年、朝鮮から回礼使として日本を訪れた宋希璟は、日本滞在中、中国から拉致されてきた2人の人物に会ったといいます1
 こうした人々のほとんどは拉致されたまま、日本で一生を終えることになりましたが、なかには母国からの返還要求や、家族からの身代金と引き換えに帰国の機会を得る者もいました。
 こうした人物を描いたのが、能「唐船」です。
 「唐船」の名が記録に登場するのは、大永4年(1524)の奥書のある『能本作者注文』が最初ですが、西野春雄氏によれば、それより百年ほど前、世阿弥が禅竹へ伝えた『能本卅五番目録』の中に「ウシヒキノ能」があり、これも「唐船」の別名ではないかといいます2
 一方、江戸時代になると、日本語と唐語を交えた「唐人子宝」というバイリンガル狂言が登場します。
 この狂言は、中国語ブームで沸く京都で誕生したらしく、水戸光圀が江戸の鷺流や大蔵流の狂言師に問い合わせた際には、誰も知らなかったといいます。その後、ある人が大坂加番(大阪城の守備)の際に、京都でこれを見つけ、水戸や江戸の鷺流に伝えました3。鷺流は明治維新後に廃絶してしまいましたが、江戸時代、京都で禁裏御用を勤めていた和泉流がいまもこの狂言を伝えています。
 物語の筋は能「唐船」とほとんど同じですが、唐人には通訳の仕事が与えられています。拉致された唐人が通訳に取り立てられることは実際にあったようで、前述の宋希璟が京都で会った魏天という通訳ももとは拉致被害者でした。彼は足利義満に重用され、妻と二人の娘とともに豊かに暮らしていたといいます。
 一方、「唐人子宝」には日本の子供は登場しません。このため物語の焦点は、唐人と父を迎えにきた中国の子供たちとの愛情に当てられています。中国語ブームの中で、異文化への理解が深まり、被害者である唐人への共感力も芽生えたのでしょう。
 ちなみに「唐人子宝」の中の唐語には、ハヲクウ(好苦 つらい)、フスウ(不是 ちがいます)、ヒイハン(喜歓 うれしい)、クハイシイナアライ(快些拿来 はやく持ってこい)、チントンリョ(聴懂了 わかりました)など、いまでも意味がわかる言葉が使われています4
 「唐人子宝」が生まれた京都には、いまも歴史ある能舞台が数多く残っています。浄土真宗の総本山である本願寺(西本願寺)には、北能舞台(国宝)と南能舞台(重要文化財)という2つの能舞台があります。北能舞台は、天正9年(1581)に建てられたもので、現存する能舞台としては最古のものです。南能舞台は、江戸時代前期に建てられたもので、毎年5月21日の親鸞聖人の降誕会には祝賀能が開催されています。
 京都を訪れた際は、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

▼「唐船」(月岡耕漁『能楽図絵』1898年)
Art Research Center Collection, Ritsumeikan University arcUP0934

注釈

  1. (朝鮮)宋希璟・村井章介校注『老松堂日本行録』(岩波文庫 1987年)
    「一倭あり、小舟に乗り魚を捉う。我が船を見て来り魚を売る。余、舟中を見るに、一僧跪きて食を乞う。余、食を給してこれに問う。僧言う、『我れは是れ江南台州の小旗なり。去々年虜せられて此に来たり、削髪して奴となる。辛苦に勝えず。官人に随いて去らんことを願う』と。潸然として泣下る。倭曰く、『米を給わらば則ち吾れまさに此の僧を売るべし。官人買うや否や』と。余、僧に問う、『汝此の島に来居す。居する所の地名は何ぞ』と。僧曰く、『吾れ来りて転売せられ、此の人に随うこと二年なり。此の如く海に浮かびて居する故、地名を知らざるなり』と」(p.40)
    「魏天は中国の人なり。小時虜われて日本に来り、後我が国に帰きて李子安先生の家に奴と為り、また回礼使に随いて日本に還り来る。江南の使適たま来りてこれを見、以て中国の人と為し、奪いて江南に帰る。帝(明の洪武帝)、見えて日本に還送し通事と為す。天、還り来りて妻を娶り二女を生む。また前王(足利義満)に愛され、銭財を有ちて居る。年七十を過ぎ、朝鮮回礼使の来るを聞きてこれを喜び、酒を持ちて冬至寺に出迎するなり。能く我が言と我が語を説くことを旧識の如く、其の家に迎え来る。陳外郎先に来たり共に庁に坐す。酌を設け以て慰む。天、私銭を持て饋餉す。予、因りて焉に宿す。」(p.101)
    国立国会図書館オンライン
  2. 西野春雄「ウシヒキの能」(『銕仙』第208号)
  3. 唐人子宝 京流ノ狂言ナリ 鷺大蔵ニハ無之
     此狂言古於水戶自京都參候者勉候由,自水戶黃門其後終致者無之由ニテ、御尋於江戸、鷺大倉エ聞合候テモ不知所、大坂加番登候節、於京都聞出、早速水戸エモ遣、鷺方エモ相伝候。(『鷺流狂言傅書(保教本)』天理図書館蔵)

     〈唐人子宝〉にしるされるこの別筆注者は水戸黄門(これは光圀、元禄13年没であろう)の御尋で、この狂言を大坂加番のとき発見し水戸・大蔵・鷺へつかわしたという。大坂加番は幕府の職名、大坂城門を守衛する大名をさすが、ひろげても、その伴をする武士程度でなければなるまい。これがそのまま別筆注者のものであるとすると、それは保教ということにはならなくなってしまう。これは次のようにかんがえよう。この注は標題〈唐人子宝〉の下の「京流ノ狂言ナリ 鷺大蔵ニハ無之」という注のよってきたる所を説明するものとなっている。狂言に関心をもつ武士が、この狂言を鷺方へしらせるときにこの文章を付し、その付属文書を保教が由来の説明として引用したとみれば、この文章の作者と筆者とを分離できることになる。(田口和夫『能・狂言研究』三弥井書店 1997年 pp.846-7)

  4. 秋山謙蔵『日支交渉史話』(内外書籍 1935年)pp.324-333

参考資料

  1. 中村久四郎「唐音語に就いて」(『支那』第18巻第9号)
  2. 中村久四郎「狂言の中の唐音語」(『東京文理科大学文科紀要』第3巻『唐音十八考』 1931年)
  3. 小川壽一「唐人子宝」(『歴史と国文学』第71号 1934年)
  4. 太田弘毅「狂言『唐人子宝』記載の宝物―被虜人解放への身代対価」(『明代中国の歴史的位相―山根幸夫教授追悼記念論叢(下巻)』(汲古書院 2007年) 

西暦 和暦 出来事
1418 応永25年 麴祥、金山衛で倭寇に拉致され、日本で妻子を持つが、宣徳年間に帰国(『正徳金山衛志』下巻二)
1420 応永27年 朝鮮の宋希璟が回礼使として来朝、通事の魏天に会う
15世紀初 応永末年~永享初年 「ウシヒキノ能」(『能本卅五番目録』)
1434 永享6年 足利義教が明史を室町第に招き、猿楽能を見物させる
1523 大永3年 大内義興が派遣した遣明船が、細川高国が派遣した遣明船を寧波で襲撃(寧波事件)。細川方の副使であった宋素卿が明に捕らえられ獄死。
1524 大永4年 「唐船」の曲名初出(『能本作者注文』)
1713 正徳3年 鳥取池田藩で狂言「唐人子宝」上演(田中貢、永井猛「鳥取池田藩演能記録」)
1724 享保9年以前 狂言「唐人子宝」(『鷺流狂言伝書(保教本)』)
1764 明和元年 狂言「唐人子宝」(『狂言六儀角淵本(明和中根本)』

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