【コラム】鎌倉市川喜多映画記念館

新井梨紗 清水玲奈

 中華電影設立の背景には、日中戦争がありました。戦争が始まった1937年には上海が日本に占領され、中国の映画の中心地であった上海では、抗日映画や日本に批判的な映画の制作は困難になっていきました。
 1938年、日本で国家総動員法が公布されます。総力戦体制を構築するため、政府にあらゆる人的、物的資源を統制・運用する権限を与えた法律です。翌1939年には映画法が公布されます。脚本の事前検閲や映画会社の許認可制など、映画製作にも厳しい制限がかけられるようになりました。
 映画法の公布から2か月後、中華電影は国策映画会社として上海に設立されました。その責任者を任されたのが川喜多長政でした。
 川喜多長政は、1922年、19歳のときに中国ついでドイツに留学し、国家間の対立や人種の違いが相互理解の障壁となっていることを痛感しました。国家や人種の壁を越えた相互理解に最も力を発揮するのは「視覚媒体」である映画ではないか。そう考えた川喜多は、1928年、25歳で東和商事合資会社を設立し、自らヨーロッパに出向いて映画を買い付け、日本の映画館に配給するビジネスを始めました。翌年には、フェリス和英女学校の竹内かしこと結婚し、2人はその実践的な語学力を武器に東和商事を存在感のある企業へと成長させていきました。
 1939年、川喜多は、麻布の自宅で中支那派遣軍参謀部の高橋坦大佐の訪問を受けます。中国での映画工作のため中華電影の責任者となることを打診されたのです。中国映画界との協力と復興を願う川喜多は、2つの条件を挙げてこれを受け入れます。
一、会社の組織や人事の決定は一切会社経営者に一任して軍はこれに容喙しないこと
一、会社の経営方針は軍の根本方針に反しない限り経営者に一任すること1
 こうして中華電影の責任者となった川喜多は、占領地ででの宣撫工作を意図した軍とは裏腹に、中国映画界の若きトップ・プロデューサー張善琨に協力を依頼しました。そして、中華電影設立後、最初に配給したのが、張善琨がプロデュースした映画「木蘭従軍」でした。これは一人の少女が老父の代わりに男装して出征し、異民族の侵攻から国を守るという作品です。もとになったのは親孝行を主題とする古典作品ですが、異民族の侵攻から国を守る姿は、当時の中国の状況とも重なるため、「それを日本軍の占領地区の中国民衆に見せるとは何ごとか」と、憲兵隊などは配給に反対したといいます2
 しかし、川喜多は中華電影の信条と性格を明らかにするため、あえてこの作品の配給を主張しました。彼は中国の映画人たちに協力を依頼する際、中華電影の設立目的をこう説明していたからです。
「中国人の作った映画を、占領地の民衆に見せること、そして日本の映画にも親しむようにして、映画を通じての日中友好をとげること」3
 こうした川喜多長政・かしこ夫妻の事績を顕彰するため、2010年、神奈川県鎌倉市にある夫妻の旧宅跡に、鎌倉市川喜多映画記念館が開館しました。ここでは夫妻の事績や作品を紹介するとともに、映画資料の展示や映画の上映、講座・講演会やワークショップの開催などが年間を通じて行われています。
 建物は平屋建ての和風建築で、数寄屋造りのイメージを再現し、周囲の環境に調和させています。板塀もかつての面影をそのままに復元しており、展示室の明るく広い開口部からは緑豊かな庭園を眺めることができます。
 古都鎌倉の落ち着いた雰囲気を味わいながら、川喜多が描いた日中友好の夢を振り返ってみてはどうでしょうか。

  1. 辻久一『中華電影史話―一兵卒の日中映画回想記』(凱風社 1998年)p.48
  2. 同注1. p.86
  3. 同注1. p.85

鎌倉市川喜多映画記念館
〒248-0005
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-2-12
TEL:0467-23-2500

参考資料

  1. 辻久一『中華電影史話―一兵卒の日中映画回想記』(凱風社 1998年)
  2. 矢野目直子「日中戦争下の上海に生きた映画人-張善琨」(神奈川大学大学院『言語と文化論集』No.3、1996年11月)

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