第17回 江戸時代の中国語ブーム

日中交流の史跡と文化
岡嶋冠山『唐話纂要』(享保3年(1718)早稲田大学図書館蔵)

 HSK(漢語水平考試)という中国政府公認の中国語能力試験があります。その受験者数は年々増加しているそうですが、実は江戸時代にも中国語ブームがありました。その火付け役となったのが、岡島冠山と荻生徂徠です。
 冠山は、長崎の生まれ。少年時代、上野玄貞(國思靖)や清国人の王庶常から唐話(中国語)を学び、内通事という民間の通訳になっていました。その語学力はすばらしく、冗談を言ったり、口論したりする姿はまるで中国人のようで、服装を見て初めて冠山と分かるほどだったといいます。
 もっとも、内通事の暮らし向きは、長崎奉行所の地役人である唐通事とは雲泥の差だったようで、唐通事の勤務日誌『唐通事会所日録』には、こんな記事があります。
「内通事の岡島長左衛門という者が、近ごろ暮らしに窮し、他国へ商売に行きたいと申し出たため、内通事の職を解くことにした」(元禄14年〔1701〕3月7日)
 この岡島長左衛門というのが、冠山と考えられています。
 1711年、江戸に出た冠山は、荻生徂徠が開いた唐話の講習会「訳社」に講師として招かれます。徂徠は、従来の漢文訓読法に異を唱え、中国の古典を学ぶには、崎陽(きよう)の学(長崎通事の学習法)に倣(なら)って、唐話を学び、唐音で直読し、平易な言葉に訳すべきと説いていました。
 後年、朝鮮通信使の一員として来日した成龍淵ソンリョンヨンは、「日本の漢籍にはみな訓点がふられているが、これは日本でしか通用しない。ただ徂徠の文集にだけは訓点がない」と、その学問的方法を称えています。
 1724年、訳社の解散により、冠山は江戸を離れ、京都に上ります。徂徠からは温かく迎えられた冠山でしたが、弟子たちの中には内通事出身の彼を「学才はあまりなし」と陰口する人もいたようです。冠山は、こうした衒学者(げんがくしゃ)たちを見返すかのように、唐話のテキストを次々と出版し、漢文訓読法では歯が立たない『水滸伝』などの白話小説を翻訳しました。
 1728年、冠山と徂徠はこの世を去りました。しかし、2人が巻き起こした中国語ブームは、儒教経典を当時の中国語によって読み直そうとする古文辞学や、今日まで続く『三国志演義』などの人気を呼び起こし、京都では日中両語のバイリンガル狂言なども上演されるようになりました。

▼川原慶賀画「荻生徂徠像」
▼岡島冠山『唐話纂要』

参考資料

  1. 西原大輔「江戸時代の中国語研究~岡島冠山と荻生徂徠」(比較文学・文化論集第9号1992年7月)

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