第21回 映画による戦時下の文化交流

日中交流の史跡と文化
川喜多長政一家(右から3~5人目)と中国の映画人たち(1944年)

 戦時中、日本は中国大陸に、満州映画協会(満映)、華北電影、中華電影という3つの国策映画会社を作りました。このうち好対照をなしているのが、満映と中華電影です。
 満映の理事長は、甘粕正彦。関東大震災(1923年)の際、無政府主義者の大杉栄夫妻と当時6歳だった大杉の甥を殺害した元憲兵隊将校です。
 中華電影の責任者は、川喜多長政。ヨーロッパ映画の輸入や日独合作映画の製作も手がけた国際派の映画人です。
 川喜多は、幼いころ、中国で軍人教育を行なっていた父を、憲兵隊に殺されていました。そのためか、彼は軍人ではなく、実業家の道を選び、中国やドイツに留学した後、25歳で映画配給会社東和商事を設立しました。
 中華電影のあった上海は、中国のハリウッドと呼ばれ、多くの優れた映画人が集まっていました。しかし、1937年、戦火が上海に及ぶと、その多くが「大後方」(重慶や延安)に去ってしまいました。
 川喜多が中華電影に着任したのは、その2年後の39年、36歳の時。軍との交渉で、会社の人事や経営方針には口出ししないとの約束を取り付けていた彼は、さっそく現地の映画人との接触を試みます。相手は「影戯大王」(映画大王)の異名をもつ張(ちょう)善琨(ぜんこん)。
 警戒する張善琨に対し、川喜多は、中華電影の設立の目的をこう語りました。「(軍のプロパガンダ映画ではなく)中国人の作った映画を、占領地の民衆に見せること、そして日本の映画にも親しむようにして、映画を通じて日中友好をとげること」。
 中国映画の配給権を得た川喜多は、第一号として『木蘭従軍』を選びました。老父の代わりに男装して出征し、異民族との戦いに活躍した花木蘭の故事に取材した作品ですが、憲兵隊などは「抗戦映画を占領地の民衆に見せるとは何ごとか!」と、カンカンだったそうです。
 終戦後、川喜多は一時公職から追放されましたが、国民党政府の関係者からも「中国の映画事業を日本軍の直接支配下に置かず、純商業的な方針で経営した」との証言が出され、追放を解除されました。
 いま中国では、川喜多の事績について否定的な意見もあるようですが、戦争の中、軍の干渉を可能な限り排除し、映画を通じて日中友好に寄与しようとした努力は、評価されてもいいのではないでしょうか。

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