第20回 殷王朝の実在を証明した日中の研究者

 殷王朝は実在したのか?20世紀の初め、学者の間でこの問題が真剣に議論されたことがありました。1909年、東大教授の白鳥(しらとり)庫吉(くらきち)が、「中国古伝説の研究」という論文を発表し、殷王朝以前の歴史は伝説に過ぎないと主張したのです。
 これに異を唱えたのが、東京高師教授の林(はやし)泰輔(たいすけ)でした。林は11年、「堯舜禹(ぎょうしゅんう)抹殺論(まっさつろん)に就(つい)て」という論文を発表し、白鳥の説に反論しました。幕末に少年時代を過ごし、伝統的な儒学を学んだ林にとって、古聖王の時代の否定は儒教思想の根幹に関わることであり、見過ごすことはできなかったのです。
 もっとも、林は単なる保守主義者ではありませんでした。彼には、殷王朝の実在を証明しうる物証がありました。それは、1899年、中国で王(おう)懿栄(いえい)という学者が発見した甲骨文字でした。王懿栄は、翌年、義和団の乱で非業の死を遂げますが、その幕客であった劉(りゅう)鶚(がく)が拓本を取り、1903年、『鉄雲蔵亀』の名で刊行していました。
これを見た林は、09年、「清国河南省湯陰県発見の亀甲牛骨に就て」という論文を発表し、甲骨文字は「必ず殷代のものなるべし」と指摘したのです。
 林は、この論文を交流のあった羅(ら)振玉(しんぎょく)に送りました。林の論文に触発された羅振玉は、翌10年、『殷商貞卜文字攷(いんしょうていぼくもじこう)』を刊行し、甲骨文字の中に殷王の名が見られることや、その真の出土地が安陽県小屯村であることを明らかにしました。
 翌11年、辛亥革命が起こると、羅振玉は王国維とともに日本に亡命しました。京都に居を構えた2人は、京大教授の内藤湖南や狩野直喜らの支援を受けながら研究を続け、甲骨文字の分野でも大きな成果を挙げました。
 その一つが、王国維が17年に発表した「殷卜辞中所見先公先王考(いんぼくじちゅうしょけんせんこうせんおうこう)」です。この論文により、『史記』などに記された殷王の系譜が、甲骨文字に刻まれたものと一致することが証明されました。
 甲骨文字の出土地が明らかになり、殷王朝の歴史が史実であることが証明されると、28年からは大規模な発掘調査が開始されました。そして、ついに殷王朝の遺跡が発見されたのです。
 林は、22年にこの世を去りました。このため、この“世紀の大発見”を目にすることはできませんでしたが、彼が信じた殷王朝の実在は、日中の研究者の交流を通じて、みごとに証明されたのです。

▼林泰輔(1854~1922)
▼王国維と羅振玉(1916年 京都浄土寺町永慕園にて)

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