【コラム】福州市と那覇市の交流

日中交流の史跡と文化
首里城

【コラム】福州市と那覇市の交流

 沖縄に北山、中山、南山の三勢力が鼎立していた三山分立時代、中山王察度のもとに中国から使節が派遣されてきました。モンゴルの支配を脱し、明朝が開国したことを知らせる使節です。
 察度はさっそく弟の泰期らを明に派遣しました。明の洪武5年(1372)のことです。琉球と中国との朝貢体制の始まりです。ちなみにこの年、日本本土でも南北朝合一が実現し、1374年には足利義満が明に最初の使節を派遣しています。
 中国と琉球の間の航海は命がけでした。中国は琉球国王が代替わりするたびに冊封使さっぷうしを派遣しましたが、冊封使が乗る船には、海難事故に遭ったときのために、正使と副使のためのひつぎが用意されていたといいます1。そこで明朝は、琉球との航海が無事行われるようにと、1392年、造船や航海の技術を持った「閩中の舟工三十六戸」を中山に下賜しました。彼らは那覇港に近い浮島に「唐営とうえい」という集落を作り、暮らすようになりました。
 中国からの移民はその後も続き、彼らが暮らす「唐営」はやがて「唐栄久米村とうえい くめむら」と名を変え、そこに暮らす移民たちも「久米三十六姓」と呼ばれるようになりました。
 中国と琉球が正式な冊封体制を築いた1404年から1866年の間に、中国からは冊封使が23回派遣され、琉球からは朝貢使節が884回派遣されました。久米村に暮らす移民たちは、中国と琉球との間の航海を荷うだけでなく、冊封使の接待や朝貢使節の派遣にも活躍し、琉球の外交を支えました。また久米村は琉球の対外貿易の拠点となり、中国の先進文化や生産技術を伝える中心地ともなりました。
 ところが近代になると、日中両国の間で琉球の帰属が問題となりました。明治政府が“琉球処分”によって琉球王国を廃し、沖縄県を設置すると、清がこれに強く抗議したのです。明治政府は、米のグラント元大統領(Ulysses S. Grant、1822年-1885年)に仲介を頼み、八重山諸島と宮古諸島を清に引き渡すかわりに、清と結んでいた条約に最恵国待遇などを加える分島増約案を提案しました。もしこの案が締結されていたら、いまごろは尖閣諸島はおろか沖縄の半分が中国領となっていたわけですが、琉球国の廃止や分割に反対していた久米三十六姓の一人・林世功が、北京で抗議の自殺をしたこともあり、この問題は未解決のままとなりました。その後、1895年、日本が日清戦争に勝利し、台湾を版図に収めると、台湾と日本本土の間にある琉球の帰属問題はあいまいなまま終結してしまいました。
 琉球国が中国に朝貢使節を派遣したころ、福建省の福州市には柔遠駅(琉球館)と呼ばれる施設が設けられ、使臣の滞在や交易の拠点となっていました。また、福州市には現地で亡くなった琉球人たちのための墓地も残っています。こうした歴史的なつながりを記念して、1981年、那覇市と福州市は友好都市を締結しました。1992年には、友好都市締結10周年と那覇市市制70周年を記念して、旧久米村の地に福州園が開園しました。福州から運ばれた建材を使い、福州式と呼ばれる庭園が忠実に再現されています。日中の友好の証でもある福州園にぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

▼福州園(那覇市)

  1. (明)陳侃『使琉球録』使職要務
      洪武、永樂時,出使琉球等國者,給事中、行人各一員,假以玉帶蟒衣極品服色。預於臨海之處,經年造二鉅舟,中有艙數區,貯以器用若干。又藏棺二副,棺前刻“天朝使臣之柩”,上釘銀牌若干兩。倘有風波之惡,知其不免則請使臣仰臥其中以鐵■之。舟覆而任其漂泊也。

参考資料

  1. 「中国明朝と関係の深い『沖縄久米村』取材記」(『人民報』日本語版 2013年5月31日)
  2. 「中国明朝と関係の深い『沖縄久米村』取材記(2)」(『人民報』日本語版 2013年5月31日)
  3. 伊東昭雄「「琉球処分」と琉球救国運動 ―脱清者たちの活動を中心に」(横浜市立大学論叢人文科学系列 第38号 1987年3月)→機関リポジトリ

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