日清戦争での日本の勝利は、中国での利権を狙う西欧諸国にとって大きな脅威でした。幕末にはろくな近代兵器さえ持たなかった日本が、近代化を始めてわずか30年足らずで大国清を負かしたのです。
この脅威をカリカチュア(風刺画)によって可視化したのが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世でした。彼は従兄弟のロシア皇帝ニコライ二世に一枚の版画を送ると、手紙にその趣旨をこう記しました。
「親愛なるニキ!
‥‥ヨーロッパ及び我がキリスト教に危険をあたへる極東の雲行‥‥とうとう僕の予言したことが明瞭な形をあらわしてきた。僕はそれを紙の上に描いてみた。一人の画家――一流の画かきだ――と共に僕はこの下絵を書きあげた。これを書きあげると共に、それが皆なに行きわたるように版画にした。画面にはヨーロッパ諸国の姿が仏教と野蛮の侵入に抗争して十字架を守護するために結合するように天使ミハエルに招かれてゐる聖者としてえがかれてゐる。‥‥僕はその版画の一枚を君に送る。君とロシアにたいする僕の衷心から熱烈な好意の印としてそれを受けてくれることを願ふ。」⑴
この版画というのが、上掲の「Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter!(ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!)」(Hermann Knackfuß 1895年)です。
「タタールの軛」という言葉で知られるように、ロシアは1240年から1480年までの240年間、モンゴル人の支配を受けていました。また、ニコライ二世自身も皇太子時代の1891年、日本で暴漢に襲われ、頭に傷を負ったことがありました(大津事件)。
ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世は、このロシアの歴史的なトラウマと、ニコライ二世の個人的なトラウマを利用して、日本への敵愾心を煽り、その勢力拡大に歯止めをかけようとしたのです。
ヴィルヘルム二世は、別の手紙でこうも伝えています。
「親愛なるニキ!
‥‥もしロシアが東洋において重大な困難に逢着するとしたら、僕はヨーロッパにおけるロシアの背後を守るのを自分の義務と考へてゐる、それが誰にたいしてゞあらうとも安全を保障する。」⑵
こうしてドイツの後ろ盾を得たロシアは、1904年、ついに日本との戦争に突入します。ところが大方の予想に反し、この戦争は日本の勝利に終わりました。これを契機として、ヨーロッパ諸国の間では、日本の脅威を説く「Yellow Peril(黄禍論)」が現実味をもって語られるようになりました。
1914年、第一次世界大戦が起こり、日本が連合国の一員として参戦すると、ドイツのある雑誌には下図のようなカリカチュアが掲載されました⑶。ヴィルヘルム二世の版画のパロディですが、そこにはブッダではなく、日本兵の姿が描かれています。連合軍との戦いが膠着状態に陥ったドイツでは、日本を脅威とするレイシズムを煽ることで、ヨーロッパ諸国の大同団結が訴えられたのです。
ヨーロッパで「Yellow Peril(黄禍論)」が唱えられるようになると、日本の言論界にも大きな変化が起こりました。なかには「日本人の祖先はアーリア人だ」などというトンデモ論を唱える人もいましたが、主流となったのは、江戸時代以来の皇国史観でした。「Yellow Peril(黄禍論)」によって差別され、皇国史観によって独善的となった日本は、やがて国際連盟からも脱退し、日中戦争、太平洋戦争という軍国主義の道を歩むことになったのです。
注釈
⑴「ウィルヘルムの手紙(ロミンテンの猟舎にて 1895年9月26日)」(大竹博吉訳編『満州と日露戦争 外交秘録』ナウカ社 1933年 p.300)
⑵「ウィルヘルムの手紙(ポッツダム新離宮にて 1895年10月25日)」(同⑵ p.301)
⑶Lustige Blätter 1915 No.4 (→Heidelberg University Library)
参考文献
⑴橋川文三『黄禍物語』筑摩書房 1976年(→国立国会図書館デジタルコレクション)
⑵飯倉章『黄禍論と日本人 – 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中公新書 2210 2013年
西暦 | 出来事 |
370 | フン族がヴォルガ川以東からヨーロッパへ移住 |
434 | フン族のアッティラが王位に就き、ライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築く(フン族の侵入) |
1236 | モンゴル帝国の第二代皇帝オゴデイの命により、バトゥを総司令官とする35,000の遠征軍がヨーロッパへの侵攻開始 |
1237 | モンゴル軍がルーシ(現ロシア)に侵攻 |
1240 | モンゴル軍がハンガリーに侵攻 |
1241 | モンゴル軍がポーランドに侵攻 |
1242 | オゴデイの死にともない、モンゴル軍がハンガリー以西から撤退 |
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