共同研究
明治年、日本の将校が中国東北部のから持ち帰った石碑の拓本が、内外に大きな衝撃を与えました。広開土王陵碑と呼ばれるこの高句麗時代の石碑には、日本が古代に朝鮮半島の国々を支配下に置いたことが明記されていたのです。
ところが戦後、北朝鮮や韓国の研究者から碑文の解釈をめぐって異論が出されます。さらに日本でも他の拓本との比較から旧日本軍による偽造説などが出されました。
この碑文は、古代の日朝関係のどのような事実を伝えているのでしょうか。
参考資料
- 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
百残新羅旧是属民由来朝貢、
而倭以辛卯年来渡海破百残
□□新羅、以為臣民。
明治以来の日本の歴史研究は、この部分が大和朝廷が朝鮮半島へ進出して百済や新羅を服属させ、任那日本府を設置した動かぬ証拠としてきました。(中略)
このように倭の威勢を読み取ろうとする通説に対して、解放後に南北朝鮮の学界から、根本的な批判が現れてきました。1955年に韓国の鄭寅普が論文「広開土境平安好太王陵碑文釈略」を発表します。さらに北朝鮮では、朴時亨が『広開土王陵碑』を、金錫亨が『初期朝日関係研究』を同じ1966年に発表しました。これが日本に紹介されて大きな衝撃をおよぼし、古代史の捉え直しの機運をたかまるきっかけとなります。(中略)
さらにまた、衝撃的な見解があらわれます。李進熙「広開土王陵碑の謎」(『思想』595、1972年)の、碑文改竄説です。酒匂が持ち帰った国立博物館所蔵の拓本は非常に鮮明なもので、教科書などにはこの写真がのせられ、研究はこれをもとになされてきていました。李進熙は、この酒匂の拓本が鮮明だったのに、その後に造られたと思われる拓本が不鮮明で読み取りにくく、1900年ごろからのちの拓本が再び読みやすくなっていることに疑問をいだきました。(pp.48-51) - 「好太王碑最古の拓本発見」(読売新聞2006年4月14日朝刊)
- 浜田耕策「高句麗広開土王陵碑文の虚像と実像」(『日本歴史』第304号 1973年9月)
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