参考資料
- 吉野誠『東アジア史の中の日本と朝鮮』(明石書店 2004年)
国王号をめぐる問題は、朝鮮側からすると、誰を交隣の相手として選択し、対等な関係を結べばいいのかという切実な問題でした。すでに十五世紀の申叔舟『海東諸国紀』も、将軍が日本国内では王を称していないことに注目し、将軍の他に天皇が存在するものの政事には関与していないなどと指摘しています。しかし、足利将軍が正式に明の冊封をうけていたこともあって、それ以上の詮索はなされていません。(中略)
江戸時代にはいってからの歴代の通信使の記録にも、天皇についての記述は出てきます。しかし、天皇は祭祀のみを担当するといった説明以上に、掘り下げた分析はみられません。
しかし、問題の重要性に対する認識はしだいに深まり、十八世紀になると、申維翰『海游録』(1719年)は春秋戦国時代になぞらえて天皇復権の可能性に言及、李瀷も天皇復権に備える必要を説いています。(pp.196-197) - (朝鮮)趙曮『海槎日記』(1764年)
甲申二月二十七日己酉
今關白家治、寔爲家康之六代孫也。間稱國王。自吉宗改稱日本大君、此正非君非臣、名號不正者也。我國旣不得已交接、則與倭皇抗禮可也。與匪君匪臣之關白、抗其禮義者、尤可羞憤。
(今関白家治(江戸幕府第10代将軍)は、実に家康の六代の孫なり。間に国王と称し、吉宗より日本大君と改称す。これ正しく君に非ず、名号は正しからざるものなり。我国すでにやむをえず交接すれば、則ち倭皇と抗礼(対等な礼を行うこと)するが可なり。君にあらず臣にあらざる関白と其の礼儀を抗するは、尤も羞憤とすべし。)
コメント