第19回 中国の初代最高法院院長になった清国留学生

 20世紀初め、清から多くの若者が日本に留学しました。その1人に中国の初代最高法院院長(最高裁長官)となった沈(しん)鈞儒(きんじゅ)(1875―1963)がいます。
 沈鈞儒は、29歳の時、科挙の最終試験に合格し、進士の称号を得ました。当時の若者にとって最高の栄誉ですが、実際は進士になっても、要職に就けるのは上位合格者だけ。273人中、78番だった彼は、一念発起し、日本への留学を決意します。
 留学先は、清国留学生法政速成科を開設した法政大学。その前身である東京法学校(のち和仏法律学校)は、フランスの法学者ボアソナードが教頭となり、人権と博愛の思想をもとに、民間の法律家を育成した学校で、卒業生の中には、伊藤博文暗殺事件で安重根らの主任弁護士となり、重刑が下らぬよう熱弁を振るった水野吉太郎のような人材が育っていました。
 この法政大学で人権思想と近代法を学んだ沈鈞儒は、2年後、帰国すると、清朝を立憲国家に変えようと活動を始めます。しかし時すでに遅く、1911年、清朝は辛亥革命によって滅んでしまいました。
 革命後は、混乱する政局の中で、議員や官職を転々とする一方、『家庭新論』などの著作を通じて、男女平等の実現や貧困児童の救済を訴えました。
 27年、上海クーデターでの逮捕をきっかけに官界を去ると、53歳からは人権派の弁護士として活動を始めました。拝金主義が横行する当時の法曹界で、彼は弁護士制度の意義について、こう語っています。
 「国家が弁護士制度を設ける目的は、弱者を扶助し、人民の権益を保障することにある…それゆえに、その任は重く、その業は尊いのだ」
 1931年の満州事変(1931年)以降、日本の侵略が進むなか、36年、全国各界救国聯合会の常務委員となった彼は、人びとに内戦停止と民族団結を訴えます。抗戦よりも反共を優先する国民党政府は、彼を含む指導者7人を逮捕しますが(七君子事件)、彼らの釈放を求める運動が一つの契機となり、37年、中国を勝利へと導く抗日民族統一戦線が実現しました。
 沈鈞儒は、中国共産党には入党しませんでしたが、その人権思想にもとづく活動は「民主人士左派の旗手」と称えられ、49年の建国とともに、初代の最高法院院長に選ばれたのです。

▼留学時代の沈鈞儒(1905年)

▼晩年の沈鈞儒(1946年)

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