第22回 憎しみの連鎖を断つために

日中交流の史跡と文化
少年時代の周恩来(1911年)

 戦中から戦後にかけて、アジア各地で日本の戦犯裁判が開かれました。被告の数は約5700人。このうち984人が死刑判決を受けました。
 一方、1956年に中国で行われた裁判では、戦犯1017人中、起訴されたのは45人だけ。死刑判決を受けた者は1人もいませんでした。
 裁判までの数年間、戦犯たちは撫順や太原の管理所に収容されていました。当時、中国は厳しい食糧難でしたが、戦犯たちには十分な食事が与えられ、入浴や理髪も定期的に行われていました。シベリア抑留時のような強制労働もありません。「制裁や復讐では、憎しみの連鎖は断てない」と、人間性の回復による自主的な更生が試みられたからです。
 この試みを指示したのが、首相の周恩来でした。
 周恩来の祖籍は紹興(浙江省)。実務派の知識人「紹興師爺」の家柄で、彼も5歳の時から私塾に入り、「人之初、性本善(人間は本来善良なものである)」という伝統的な儒教教育を受けて育ちました。
 彼は9歳の時、生まれ故郷の淮安で、こんな光景を目にしたといいます。
 ある日のこと、1人の男が捕らえられ、刑場に送られることになりました。途中、役人は男を囚車から降ろすと、こう叫びました。「護送役人の子はいるか」
 すると人混みの中から1人の少年が姿を現しました。役人は男に言いました。「これがお前に殺された護送役人の子だ」。実は、男は盗みを働いて捕まった時、護送役人を殺して逃亡していたのです。
 泣きじゃくる少年を前に、猛々しい男の顔はやがて自責の苦悶へと変わり、こう叫んだといいます。「坊ちゃん、赦してくれ。俺は本当に悪いことをしてしまった。死んでお詫びさせてくれ」(「射陽憶旧」)
 幼年時代の儒教教育とこうした体験、そして留学時代に見た日本の記憶から、戦犯たちも徳と礼を以て更生を促せば、本来の人間性を取り戻し、自らの罪に気づくはずだと考えたのでしょう。
実際、この試みは成功し、帰国した元戦犯たちは、57年、中国帰還者連絡会(中帰連)を結成し、戦時下の加害の事実を『三光』などの書を通じて日本社会に伝えました。
 中帰連は、会員の高齢化のため、2002年に解散しましたが、翌年、埼玉県川越市に中帰連平和記念館が開設され、その更生と贖罪の記録を後世に伝えています。

▼中国帰還者連絡会編『完全版三光』(晩聲社 1984年)表紙

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