1945年の終戦で、日本は平和な時代を迎えました。しかし中国ではその後も戦火が続いていました。46年から49年まで続いた国共内戦、50年から53年まで続いた朝鮮戦争です。
戦火が続く中、中国は必要な技術や知識を持つ人材を確保するため、中国にいた日本の軍人や医療関係者、技術者などを残留させ、雇用することにしました。これを「留用」といいます。
そうした日本人の一人に山田辰一医師(1921-?)がいます。満州医科大学で医学を学び、関東軍の陸軍病院に勤務していた山田医師は、戦後「留用」されて東北民主連軍の病院で傷病者の治療に当たっていました。その後、第四野戦軍とともに南方へ向かい、武漢に入って一か月半ほど過ぎた49年夏、山田医師は思わぬ問題に直面にしました。原因不明の高熱を発症する兵士が続出したのです。
衛生部も頭を抱える中、山田医師はある実験的な治療を試みました。当時流行していたマラリアの治療薬ではなく、毒性の強い吐酒石を注射したのです。すると意外にも効果は良好、翌日には発熱も収まりました。実は日本にもこれとよく似た症状を示す地方病があったのです。日本住血吸虫病です。
原因究明のため、日本では明治から大正にかけて、地元の医師や研究者が研究を進めていました。そして、1904年、ついにその病原体である寄生虫が発見されたのです。それが日本住血吸虫(学名 Schistosoma japonicum)です。1909年には感染経路が飲み水ではなく、皮膚からの侵入であること、1913年には中間宿主の巻貝(発見者の名から宮入貝と呼ばれています)も発見されて、その予防法や治療法の研究が進められていました。
山田医師がその成果を発表すると、1949年12月、華東軍政委員会は上海市郊区血吸虫病防治委員会を組織し、大規模な調査を開始しました。1953年には、最高人民法院院長の沈鈞儒も毛沢東に書簡と資料を送り、対策の必要性を訴えました。沈鈞儒は、江蘇血吸病防治研究所で調査に当たっていた孫娘の沈瑜1から、流行地区の惨状を聞いていたのです。毛沢東はこの提言を受け、1955年、“一定要消滅血吸虫病(血吸虫病を撲滅しよう)”というスローガンを掲げ、全国の流行地域で感染者の検査や治療、中間宿主である巻貝(中国名“釘螺”)の駆除といった撲滅運動を開始しました。その結果、1950年には全国の感染者数一千万余、末期患者60万を数えた血吸虫病も、50年代末には減少へと向かったのです。
中国中日関係史学会は、この山田医師のように、戦後中国に残り、新中国の建設のために貢献した日本人を記録に残すため、『友誼鋳春秋-為新中国做出貢献的日本人』巻一(2002年)、巻二(2005年)を出版しました。両国の友誼を春秋に鋳こんだのです。
注
- 沈瑜‥沈鈞儒の子沈謙の長女。1950年、上海聖約翰大学医学院を卒業後、江蘇血吸虫病防治研究所で血吸虫病の調査を行っていた。
日本住血吸虫症関連年表
| 西暦 | 日本 | 中国 |
| 1847 | 藤井好直が片山地区(現広島県福山市神辺町川南)の風土病に関する記録『片山記』を著す | |
| 1897 | 西山梨郡清田村の杉山なかの遺言に基づき、地方病の最初の人体解剖が行われ、胆嚢、十二指腸の中から多数の虫卵が発見される(盛岩寺「紀徳碑」) | |
| 1904 | 4月、岡山医学専門学校教授の桂田富士郎が山梨で猫を解剖し、新しい寄生虫を発見、日本住血吸虫(Schistosoma japonicum)と命名する | |
| 1905 | 常徳広徳医院の米国医師 Dr Oliver Tracy Logan が洞庭湖の18歳の漁民の便から日本住血吸虫の卵を発見 | |
| 1909 | 桂田富士郎と長谷川恒治、京都医科大学教授の藤波鑑と中村八郎がそれぞれ動物実験を行い、日本住血吸虫が皮膚を通して体内に侵入することを確認 | |
| 1913 | 9月、九州帝国大学医学部教授の宮入慶之助と助手の鈴木稔が佐賀県鳥栖駅の裏で日本住血吸虫の中間宿主であるミヤイリガイを発見(鳥栖駅「宮入先生学勲碑」) | |
| 1916 | 9月、藤浪鑑らが『日新医学』誌に「日本住血吸蟲病論」を発表 | |
| 1924 | Ernest Carroll FaustとMeleney, Henry Edmund が中国全土で日本住血吸虫病の調査を実施 | |
| 1951 | 沈鈞儒が孫娘の沈瑜から日本住血吸虫病の流行地域の惨状を聞く | |
| 1953 | 9月、太湖で療養中の沈鈞儒が長江流域の日本住血吸虫病の流行とその対策を求める書簡を毛沢東に送る | |
| 1955 | 11月、毛沢東が杭州での会議で“一定要消滅血吸虫病(血吸虫病を撲滅しよう)”というスローガンを唱える 同月、 |
|
| 1957 | 4月、国務院が「関於消滅血吸虫病的指示(血吸虫病の撲滅に関する指示)」を出す | |
| 1958 | 7月、毛沢東が「送瘟神二首」を作る | |
| 1972 | 湖南省の長沙馬王堆1号漢墓の前漢時代の女性遺体の肝臓と直腸から日本住血吸虫の卵が発見される | |
| 1975 | 湖北省の江陵鳳凰山168号墓の前漢時代の男性遺体の肝組織と腸壁から日本住血吸虫の卵が発見される | |
注
- 三神三朗「日本住血吸虫発見の記念碑」碑文(1955年、息子の寿氏建立、甲府市大里町旧三神医院敷地内)
明治三十七年七月三十日 此の地に於て始めて日本住血吸虫が発見された。三神三朗 - 杉山なか「死体解剖御願」
私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る。
私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。
死体解剖御願、杉山なか。
明治30年(1897年)5月30日 - 杉山なか紀徳碑(東八代郡医会1910年建立 甲府市向町盛岩寺境内)
- 沈鈞儒が毛沢東に送った血吸虫病の対策を求める書簡(1953年9月16日)
毛主席:
春夏间在无锡太湖滨养病,见农村中血吸虫病传染甚广,危害人民生长、生育、生产、生活以至生命。此病传染主要由于粪便及水中钉螺。据不完全统计,苏南一带患此病者近二百万人,有全家因此死亡者。太湖面积三万六千顷,其中渔民一万三千二百六十余人,半渔半农者二万一千二百余人。渔民终年在水中劳动尤易沾染虫病。闻此病不仅传染太湖区域,全国十二省,二百十三县市均有此病。我生长浙西,辛亥革命,任浙江省教育厅长曾赴各地视察,目观农民罹此病致死,不知防治。此次重游太湖,当地已设血吸虫病防治所,不知其他各地政府均注意及之否。但就太湖区所见,农村环境卫生,仍未臻美善。居民在湖中洗浴游泳,习以为常,因此病毒传播仍甚广。为此特嘱孙女沈瑜写报告以了解实际情况。兹将孙女来信及报告一并附呈,藉供参考。个人意见应请卫生机关加以重视,加强并改进血吸虫病防治工作。
是否有当,请予核示。
顺致
敬礼沈钧儒
一九五三年九月十六日
参考文献
- 楊鵬程「有関湖南血吸虫病的歴史記載」(『文史拾遺』2015年第2期)→湖南省文史学研究館
- 李林瀚他「中国血吸虫病防治策略的演変」(『上海予防医学』2019年9月第31卷第9期)
- 「共産党人的闘争―全党動員、全民動員、消滅血吸虫病」(2021年6月)→中央紀委国家監委網站
- 中山正真編『漢方医藤井好直 : 片山病先覚者の人と業績』(1981年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 藤浪鑑「第一篇 本邦ニ於ケル日本住血吸蟲病硏究ノ歷史」(『日新医学』第6年第1号 1916年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 亀谷了『寄生虫紳士録 : やさしい寄生虫の知識』(オリオン社, 1965年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 「Ⅱ 中国における流行」(山梨地方病撲滅協力会編『地方病とのたたかい 日本住血吸虫病・医療編』山梨地方病撲滅協力会 1981年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 武忠弼主编『江陵鳳凰山一六八号墓西漢古屍研究』(文物出版社 1982年)
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