1940年、フランスで伊達政宗の遣欧使節に関する新発見がありました。1615年、遣欧使節がフランスのサン・トロペ(Saint Tropez)に滞在したときの様子を伝える三つの文書が見つかったのです。その一つ、サン・トロペ侯夫人の手記にこんな一節があります。
彼らは中国の絹で作った(トロペ侯夫人の誤解――引用者)紙のハンカチで洟をかみ、同じハンカチを二度とは使いませんでした。
洟をかめば必ず紙を地上に棄てますので、見物に集った人々が拾い集めるのを見て面白がっていました。中でも宮廷女官の用いる豪華な書翰箋のように、縁を飾った大使(支倉常長を指す――引用者)の紙を特に拾おうと大勢の群衆がひしめき合いました。
一行は胸に多量の紙を挟んで持っておりましたが、長途の旅行のため十分の用意をして来たので、こういう振舞が出来たのです。1
1615年といえば、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した年ですが、日本では当時すでに洟をかむときのために懐紙を持つことがエチケットとなっていたのです。
紙をつくるには、大量の植物原料が必要です。このため中国では早くから紙の漉き返しによるリサイクルが始まっていました。1964年、中国科学院自然科学史研究所の潘吉星氏は、敦煌石窟から発見された「乾徳五年」(967年)の紀年のある『救諸衆生苦難経』の中に、十分砕かれていない古い紙料が含まれているのを発見しました2。中国に現存する最古の再生紙です。中国ではこうした再生紙を還魂紙と呼んでいます。
では、日本の紙のリサイクルはいつごろから始まったのでしょうか。
『三代実録』によれば、清和天皇の女御であった藤原多美子は、貞観十八年(876年)に天皇が崩御すると、生前に天皇から送られた書を集めて漉き直し、法華経を写経して供養したといいます。宗教的な目的によるものですが、このころすでに紙のリサイクルの技術があったことがわかります。
日本の製紙技術をリードしてきたは、図書寮の附属機関である京都の紙屋院でしたが、平安時代の末になると原料の不足から宿紙と呼ばれる再生紙の生産が中心となり、良質な紙の生産は、各地の紙郷(和紙の地方産地)へと移ってしまいました。その後、紙屋院が廃止されると、そこで培われた紙の漉き返しの技術は民間へと伝えられ、フランスの人々を驚かせた使い捨ての紙が各地で作られるようになります。
江戸時代になると、江戸や京都などの大都市では、紙屑を買い取る紙屑屋が登場し、紙のリサイクルが始まりました。現在の木材パルプと異なり、繊維の長い和紙は繰り返し漉き返すことができます。このため江戸の浅草紙や京都の西洞院紙などの安価な再生紙が誕生し、それを携帯することが庶民のエチケットとなっていきました。
江戸時代、庶民にとって紙がいかに必需品であったか。それを伝えるこんなエピソードがあります。江戸時代の初め、ある豪商が従来の二倍の上納金と引き換えに紙の専売権を与えるよう幕府に願い出ました。他の役人たちが許可に傾く中、御勘定頭であった伊丹康勝だけは断固としてこれを認めませんでした。将軍家光にその理由を尋ねられたとき、康勝はこう答えたといいます。
鼻紙の値上げが庶民生活に深刻な影響を与えるほど、紙は必需品となっていたのです。
ちなみにヨーロッパで使い捨てのティッシュが普及したのは、20世紀のことですから、日本ではそれよりも三百年も前に鼻紙の携帯が普及していたのです。
東京のJR王子駅近くの飛鳥山公園内には、紙の博物館があり、各地の紙郷の紙や鼻紙に使われた浅草紙などが展示されています。屋外のガーデンでは紙の原料となる植物も見ることができます。
▼紙屑屋(鳥居清長画『児訓影絵喩』1798年)
〔出典〕国書データベース
紙の博物館
〒114-0002 東京都北区王子 1-1-3
TEL 03-3916-2320 / FAX 03-5907-7511
[開館時間]10:00 〜 17:00(入館は 16:30 まで)
注
- 高橋邦太郎『日仏の交流:友好三百八十年』(三州社 1982年)p.257→国書データベース
- 潘吉星『中国造紙史話』(商務印書館, 1998年)第四章 宋元時期的造紙技術
- 『三代実録』卷四十九仁和二年十月二十九日
廿九日甲戌。正二位藤原朝臣多美子薨。右大臣贈正一位良相朝臣少女、清和太上天皇之女御也。性安祥、容色妍華、以皈德見稱。貞觀五年冬、授從四位下。六年春正月朔日、天皇加元服。此夕以選入後宮、有專房之寵、少頃爲女御。是年秋、進從三位。九年、加正三位。元慶元年授從二位、七年、至正二位。徳行甚高、爲中表所依懷焉。天皇重之、增寵異於他姫。天皇入道之日、出家爲尼、潔齋勤修。晏駕之後、收拾生前賜御筆手書作紙、以書写法華經、設大斎會、恭敬供養、奉酬太上天皇不次恩徳也。即日受大乘戒。聞而聽者、莫不感歎、熱發奄薨。→国書データベース - 室鳩巣『常山紀談』巻之二十五
「日本の唐より優りたる物は紙にて候。中にも鼻帋と申す物は、貴賤一同に一日も無くては叶はぬ物にて候。其価の賤しければこそ世の助とはなり候へ。望み請ふ者、今まで商人の奉りしより千両の金を増しなん事、此千両は何処より出すべき。此紙を商ふに価を増して商ふを、又そを買いて商ふ人幾何も候はんに、是等も同じく利を得て商はんとせんには、此処に加はり、彼処に増して、後には価甚貴くなりなん。凡一帖の紙価一二銭を増したらんには、富める人の憂とするには足らず。貧賤の人一日に得る所の利誠に少し。僅に一二銭を累ねて妻子をも養ふ。斯くあさましき者とても、今日迄は鼻帋ようの物を常に用ひ来れり。価忽に増したればとて、更に何物を以てか此に換ふべき。」→国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
- 潘吉星『中国製紙技術史』(平凡社 1980年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 小林良生「蔡倫以前紙に関する学術論争」(『科学史研究』第Ⅱ期第47号 2008年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 久米康生『和紙の文化史』(木耳社 1976年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 久米康生『和紙文化誌』(毎日コミュニケーションズ 1990年)→国立国会図書館デジタルコレクション
- 石田幹之助「伊達政宗の欧州遣使に関する新事実に就いて」(『石田幹之助著作集 第三巻』六興出版 1986年)→国立国会図書館デジタルコレクション
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