【コラム】医学・薬学(三)

日中交流の史跡と文化
「刮骨療毒」(関羽とその矢傷を治療する華佗)

 『三国志演義』の中にこんな話があります。樊城の戦いで腕に矢を受けた関羽は、矢の毒を除くため、傷口を切り開き、骨を削る手術を受けることになりました。この手術の間、関羽は酒を酌み、談笑しながら、平然と碁を打っていました。そのようすを見た医師は、「長く医者をしておりますが、このような方は初めてです」と言って驚いたといいます。
 『三国志演義』は、この医師を伝説の名医華佗(145?-208)としていますが、これは誤りでしょう。史書によれば、華佗は当時すでに麻沸散という麻酔薬を使っていたといいます。本当に華佗ならば、関羽もこんな痛い目に遭う必要はなかったはずですから。
 華佗は曹操に殺され、その秘伝書も焼かれてしまったため、麻沸散がどのようなものだったのかはわかりませんが、中国ではその後もさまざまな麻酔薬が使われていました。宋の竇材の『扁鵲心書』には灸の治療に睡聖散、元の危亦林の『世医得效方』には骨折や脱臼の治療に草烏散という麻酔薬が使われています。
 この麻酔薬を使った治療法は、やがて琉球にも伝わりました。これを伝えたのが、高嶺徳明(1653-1738)という人物です。徳明は1663年、10歳の時に進貢使に随って清に渡り、福州の琉球館で3年を過ごしました。その間に中国語を習得した徳明は、帰国後、久米村の閩人三十六姓の欠を補って魏姓を賜り、魏士哲と名乗って通事となりました。1688年、進貢使の通事として福州に渡ったとき、徳明は黄会友という医師を訪ねて補唇の秘方を学ぶよう命じられます。琉球王尚貞の孫の尚益(のちの尚益王)が口唇裂を患っていたからです。黄医師から補唇の秘方と秘伝書を得た徳明は、翌89年、琉球に帰り、尚益の口唇裂の縫合手術に成功しました。
 では、徳明は手術の際、どのような麻酔薬を使ったのでしょうか。麻酔科医で医学史を研究する松木明知氏によれば、曼荼羅花と烏頭を主成分とする麻酔薬ではなかったかといいます。曼荼羅花や烏頭は、竇材の睡聖散や危亦林の草烏散にも使われていた薬材です。
 島津氏による琉球侵攻の後、那覇には薩摩藩の在番奉行が常駐していました。徳明は1690年、在番奉行村尾源左衛門の命により、薩摩藩の藩医伊佐敷道与にもこの秘方と秘伝書を伝えました。徳明の事績を初めて紹介した沖縄市研究者の東恩納寛惇氏は、1804年に全身麻酔による乳癌の摘出手術に成功した華岡青洲も、この秘伝書を見たのではないかといいます。
 その当否はともあれ、徳明が中国から琉球、薩摩へと伝えた麻酔を使った治療法が、人々を手術の苦痛から救ったことは事実でしょう。もう関羽のようにやせ我慢をする必要はなくなったのです。
 琉球大学医学部の構内には、1993年、沖縄県医師会が寄贈した高嶺徳明顕彰碑が建てられています。

▼高嶺徳明顕彰碑(琉球大学医学部構内)

参考資料
⑴(宋)竇材『扁鵲心書』巻下
睡聖散
人難忍艾火灸痛,服此即昏睡,不知痛,亦不傷人。
山茄花八月收 火麻花八月收〇按八月中火麻花已過時,恐作七月為是。
收此二花時,必須端莊閉口,齊手足採之。若二人去,或笑,或言語,服後亦即笑,即言語矣。採後共為末,每服三錢,小兒只一錢,茶酒任下。一服後即昏睡,可灸五十壯,醒後再服再灸。
按:山茄子,今謂之風茄兒,其花亦謂之曼陀羅花,火麻即大麻。今圃地所植之黃麻乃是此種。《本草綱目》云:曼陀羅花,生北土,南人亦有栽者。春生夏長,獨莖直上,高四五尺,生不旁引,綠莖碧葉,葉如茄葉。八月開白花,凡六瓣,狀如牽牛花而大,攢花中折,駢葉外包,朝開夜合。結實圓而有丁拐,中有小子。八月采花,九月採實。花實氣味俱辛溫有毒,主治諸風及寒濕腳氣,驚癇脫肛等證。相傳此花,笑採浸酒飲,令人笑,舞採浸酒飲,令人舞,予嘗試之。飲須半酣,更令一人或笑或舞,引之乃驗,又云七月採火麻子花,八月採山茄子花,陰乾等分為末,熱酒調服三錢。少頃,昏昏如醉,割瘡、灸火不覺苦痛,蓋古方也。今外科所用麻藥即是此散,服之並無傷害。

⑵(元)危亦林『世醫得效方』巻十八
草烏散 治損傷骨節不歸窠者,用此麻之,然後用手整頓。
豬牙皂角 木鼈子 紫金皮 白芷 半夏烏藥 川芎 杜當歸 川烏各五兩 舶上茴香 坐拏酒煎熱 草烏各一兩 木香三錢。傷重刺痛手近不得者,更加坐拏、草烏各五錢及曼它羅花五錢入藥。
右並無煆製為末。諸骨碎骨折出臼者,每服二錢,好紅酒調下,麻到不識痛處。或用刀割開,或用剪去骨鋒者,以手整頓骨節歸元端正用夾夾定,然後醫治。或箭鏃入骨不出,亦可用此麻之。或用鉄鉗拽出,或用鑿鑿開取出後,用鹽湯或鹽水與服立醒。 

参考文献

  1. 東恩納寛惇「高嶺徳明―琉球における全身麻酔外科手術の創始者」(『医譚』復刊第18号 1958年8月)
  2. 松木明知「琉球に麻酔法を将来した高嶺徳明」(『麻酔科学のパイオニアたち : 麻酔科学史研究序説』克誠堂出版 1983年)
  3. 松木明知「高嶺徳明の事績について―とくに手術に用いた『薬』の本態について」(『日本医史学雑誌』第31巻第4号 1985年10月)

日中医学交流史年表(赤字が医学関係)

西暦
和暦
国・地域
出来事
中国
朝鮮
日本
819 統一新羅 平安時代 新羅人・王請らの交易船が唐の貿易商人・張覚済兄弟らととに日本の奥州に漂着(円仁『入唐求法巡礼行記』)
828 新羅人・張保皐(790-841)が大宰府に来航
833 武蔵国多摩郡と入間郡の境に悲田処を設ける(布施屋の一)
835 このころ大村直福吉が、幼少時から病弱で、医薬に関心のあった仁明天皇の勅を奉じて『治瘡記』を編纂(佚、日本最初の外科書)
これ以前、九州に続命院を開設(布施屋の一)
837 出羽国最上郡に済苦院を開設(布施屋の一)
838 日本が藤原常嗣や円仁らを唐に派遣(第十九回遣唐使
医術上の疑義を請問するため、遣唐使とともに菅原梶成を唐に派遣(『文徳実録』仁寿三年六月)
843 菅原梶成が鍼博士に任ぜられる
844 相模国高座郡と愛甲郡に救急院を開設(布施屋の一)
847 円仁が新羅人・金珍らの商船に乗って帰朝
859   貞観年間(859~877)、出雲広貞の子菅原岑嗣(793~870)が、清和天皇の勅を奉じ、物部広泉、当麻鴨継、大神庸主らとともに『金蘭方』を編纂(現存書は偽書)
860   物部広泉没(日本最初の養生法の専門書『撰養要訣』(佚)の著あり)
861   8月、赤痢が流行し、10歳以下の死者多数(『三代実録』)
862   京と畿内外で咳逆が流行し、死者多数(『三代実録』、日本最古のインフルエンザの記録か?)
872   1月、京で咳逆が流行し、死者多数、渤海人が伝えたという
880   唐人・張蒙の商船が一切経の欠本120巻を齎す
885   大宰府に対し、貴族の家使や地元の吏民らが唐物を私買することを禁じる令を下す
891   このころ藤原佐世が宇多天皇の勅命により、当時日本にあった漢籍16,790巻を40部門1579部に分類した『日本国見在書目録』を編纂
892   後百済   甄萱が後百済を建国
893 唐人・王訥が在唐僧中瓘からの唐の衰退の知らせを伝える(『菅家文書』)
894 日本が菅原道真を遣唐大使に任命するが中止(第二十回遣唐使・中止
901 後高句麗 弓裔が後高句麗を建国
903 8月、藤原時平が唐物の私買を禁じる太政官符を出す
907 五代十国時代 節度使朱全忠が唐昭宗を弑し、汴京を都として後梁を建国(唐の滅亡
918 後高句麗で王建が王位を奪い、高麗を建国
醍醐天皇の侍医で権医博士の深根輔仁が勅を奉じて『本草和名』2巻を撰進する
922 後百済から使節が来朝するが、通交を拒否
926 渤海が契丹族に滅ぼされる
927
延長5
醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが『延喜式』を編纂(施行は967年、「凡そ医経を読む者は『太素経』は460日、『新修本草』は310日を期限とする」と定める)
929 後百済から再び使節が来朝するが、通交を拒否
934 このころ源順が『倭名類聚抄』を著す(第3巻に疾病の和名と漢名を列挙、現存する日本最古の病名リスト)
935   高麗が新羅を滅ぼす
936 高麗 高麗が後百済を滅ぼし、朝鮮半島を再統一
7月、呉越人蒋承勳、季盈張らが来航
937 高麗から使節が来朝するが、通交を拒否
939 日本で平将門の乱が起こる
高麗から再び使節が来朝するが、通交を拒否
947 呉越王佐の使者として蒋袞らが来朝、左大臣藤原実頼が返書を送る(『本朝文粋』巻六)
951 和気時雨が外祖父で典薬頭の宮利名の縁で医術を修め、この年、典薬頭に任ぜられる(医家和気家の始まり)
953 呉越王弘俶の使者として蒋承勳が来朝、右大臣藤原師輔が返書を送る(『本朝文粋』巻七)
日延が天台山に経典を届けるため呉越国に渡る
957 呉越国持礼使盛徳言が来朝
日延が呉越王弘俶が作った八万四千金銅宝篋印塔をもって帰朝(「銭弘俶八万四千塔」奈良国立博物館蔵)
959 呉越国持礼使盛徳言が再び来朝
8月、首が腫れる福来病が発生(『日本紀略』、耳下腺炎、おたふく風か?)
960 北宋  
983 8月、奝然が宋商陳仁爽、徐仁満らの帰舶に便乗して入宋
12月、奝然が宋太宗に拝謁して、王年代紀、職員令、鄭氏注孝経一巻、越王孝経新義第十五一巻などを献上、印本大蔵経(開宝勅版大蔵経)や紫衣を賜わり、法済大師の号を授けられる
984 11月、丹波康頼(912~995)が隋の巣元方の『病源候論』など隋唐の方書百余家の論をもとに『医心方』30巻を編纂、この年、円融上皇に奏進(現存する日本最古の医学全書、仏教の影響も受け、所々に療病の符咒を挙げる。『丹波氏系図』によれば、康頼は後漢の霊帝の末裔、康頼以降、丹波氏は和気氏と並んで典薬頭を世襲)
986 7月、奝然が宋商鄭仁徳の舶によって帰朝
988 正月、源信が『往生要集』を宋商朱仁徳と宋僧斉隠に託し、宋に送る
998 夏から冬にかけて疫瘡(麻診はしか)が流行、京師で多くの男女が死亡(『日本紀略』)
1003 8月、源信僧都の弟子・寂昭が師に託された疑問二十七条を携えて入宋(→比叡山安海の逸話)
1004 寂昭が宋の真宗に拝謁、紫方袍を賜わり、円通大師の号を授けられる
1009 12月、中宮(一条天皇の皇后である道長の娘彰子)の安産を祈るため、勅願により千部の法華経を摺る(『御堂関白記』摺供養のはじまり、奝然が印本大蔵経を齎したことと関係?)
1034 寂昭が杭州清涼山の麓で遷化
1047 筑前の人清原守武が宋への密航が発覚し、貿易貨物を没収され、佐渡に流される
1072 成尋が弟子7人とともに宋商孫忠の舶により入宋
成尋が神宗に拝謁し、天台・真言の経典六百余巻を献上、紫袈裟衫衣裙を賜わり、善慧大師の号を授けられる(→神宗の勅を奉じた雨乞いの逸話)
1073 僧成尋の弟子5人が宋僧悟本とともに宋商孫忠の舶により帰朝、宋神宗の御筆文書と金泥法華経などを献じる
1078 宋神宗の御筆文書の表現をめぐって議が重ねられたため、この年ようやく通事僧仲回を宋に派遣
「唐朝與日本和親久絕,不貢朝物。今日頻有此事,人以成狐疑。」(『百錬抄』承暦二年十月廿五日条)
1080 宋商孫忠が越前敦賀に入港し、明州の牒状を伝える
1081 丹波雅忠が晋・唐の方書の救急方を摘録し『医略抄』を著す(丹波雅忠は丹波康頼の曽孫、丹波忠明の長男で、日本扁鵲と呼ばれ、高麗王・文宗から医師派遣の招請があった際、その候補にも上がった)
1091 大宰権帥藤原伊房が私的に僧明範を契丹に派遣し、交易を行う(のち罪に問われ、位一級を貶される)
1107 大観年間 (1107~10)、宋の徽宗の勅命により、陳師文・裴完元・陳承らが処方箋集『和剤局方』5巻を編纂(中世日本でも多くの医家が利用)
1116 宋商孫俊明、鄭清らが牒状を伝える
1125  
1127 南宋 欽宗が金によって北方に拉致され、北宋が滅亡(靖康の変
1146  
1150 宋商劉文仲が来航
1158 8月、平清盛、大宰大弐となる
1167 重源が入宋
1168 4月、栄西が入宋し、9月帰朝(第一回入宋)
1172 9月、明州の刺使から方物と牒書が届く
1173 3月、平清盛が明州の刺使に返牒と砂金百両などを送る
1181 12月、平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討(南都焼討
このころ金の劉完素が『素問玄機原病式』2巻を著す(金元四大家の一)
1185 鎌倉時代 3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぶ
8月、重源と宋人陳和卿らの大仏修復が完了し、開眼供養会が開かれる
1187 栄西が入宋し(第二回入宋)
1189 摂津三宝寺の大日能忍が『偽山大円禅師警策』を開版(禅籍開版の嚆矢
1191 栄西が臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受けて帰朝、日本の禅宗の始祖となる
1193 7月、後白河法皇が宋銭通用禁止令を出す
1199 4月、俊芿が入宋(秦里封国王の使者の印度僧との梵字通訳の逸話
1211 俊芿が帰朝、仏教などの書籍2013巻を齎す
1214 栄西が源実朝に「茶徳を誉めるところの書」一巻を献上(『喫茶養生記』か?)
1223 3月、道元が入宋、随行した加藤景正は宋で窯業を学び、瀬戸焼の開祖となり、木下道正は解毒丸の製法を伝える
1227   道元が帰朝、日本曹洞宗の始祖となる
1228   金の張従正(1156-1228)が『儒門事親』15巻を著す(金元四大家の一)
1234   金の首都開封がモンゴルの攻撃で陥落し、金が滅亡
1235 円爾が入宋、随行した満田弥三右衛門は宋で唐織を学び、博多織を始める
1241 円爾が帰朝、多くの儒教経典を含む書籍数千巻を齎し、普門院に置く(大道一以『普門院経論章疏語録儒書等目録』)
1243 忍性が奈良北郊の北山の地に、日本最古のハンセン病患者看護・救済施設である北山十八間戸を開設
1245 泉涌寺で『仏制比丘六物図』が開版される(宋・元槧本を復刻する唐様版のはじまり
1246 宋僧蘭渓道隆が来朝(中国禅僧の来朝の嚆矢)
1247 南宋の宋慈が『洗冤録』を著す(世界初の本格的な法医学書)
元の李杲(東垣 1180-1251)が『内外傷辨惑論』3巻を著す(金元四大家の一)
1253 11月、北条時頼が建長寺を建立し、蘭渓道隆を開山第一祖とする
1260 宋僧兀庵普寧が来朝
1262 10月、北条時頼が兀庵普寧に師事し、その印可を得る
1269 宋僧大休正念が来朝1271宋僧西澗士曇が来朝
1274 10月、モンゴルの第一回日本遠征(文永の役
1275 温州の雁蕩山能仁寺に避乱していたた無学祖元が、元軍を前に臨刃偈を詠み、難を逃れる
1276 正月、モンゴルのバヤンが南宋の都臨安を無血開城させる
1278   北条時宗の発願により鎌倉極楽寺の忍性が桑ヶ谷療養所を開設(20年間に46,800人を治療)
1279


3月、崖山の戦いで南宋最後の皇帝趙昺が元軍に敗れて入水、南宋滅亡
5月、北条時宗の招請を受け、宋僧無学祖元が来朝
1281 5月、モンゴルの第二回日本遠征(弘安の役
1282 11月、北条時宗が円覚寺を建立し、無学祖元を開山第一祖とする
1299 元の成宗が一山一寧を日本に派遣(その後、日本に帰化し、初めて宋学を伝える
1303 梶原性全がかな交じり文による衆生向けの医書『頓医抄』50巻を著す
1305 龍山徳見が入元
1307 雪村友梅が入元するが、倭寇が慶元を焼き払ったため間諜と見なされ、逮捕される(以後22年に渡って元に滞在し、五山文学の開祖となる)
1315 梶原性全が漢文による子孫のための秘伝書『万安方』62巻を著す
1322 虎関師錬が日本初の仏教通史『元亨釈書』30巻を朝廷に上呈
1325 秋、鎌倉幕府が建長寺修復のため元に貿易船を派遣(建長寺船
中巌円月が渡元
1326 北条高時の招請により清拙正澄が来朝し、百丈清規を伝える
1329 明極楚俊竺僊梵仙が来朝
1336 足利尊氏が武家法『建武式目』を発布(茶会での四種十服茶が禁止される)
1338












南北朝時代 足利尊氏が征夷大将軍に任じられる
1342 8月、室町幕府が天龍寺造営のため博多商人の至本(国籍は不明)を綱司(船長)として元に貿易船を派遣(天龍寺船
1347 元の朱震亨(号丹溪)が『局方発揮』を著し、局方の学を排斥(金元四大家の一)
1349 龍山徳見が46年ぶりに帰朝、ともに来朝した林浄因は帰化して塩瀬に改姓し、饅頭屋を開業
1362
貞治元
貞治年間(1362-68)、僧医の壺隠庵有隣が疾病ごとにその原因,症候,診断,類症鑑別,予後を記した『福田方』を著わす(中国医学の模倣から実証医学への転換)
1367 7月、福州から雕工の陳孟千陳伯寿2人が元末の混乱を避け来朝(『空華日工集』応安三年九月廿三日条)
元から来朝した雕工の陳孟栄が『禅林類聚』20巻を覆刻
1368
応安元

正月、朱元璋が金陵で即位し、国号を明とする
11月、明太祖が日本に使節を派遣するが、征西府の懐良親王はこれを拒否
このころ陳宗敬(延祐)が博多に来航、医術を業とする(透頂香(うゐらう)売りの祖・陳外郎か?)
1369 3月、明太祖が倭寇の取り締まりを求めるため、再び日本に使節を派遣、懐良親王は使節の7名の中、楊載と呉文華を除く5名を殺害
竹田昌慶、明に渡り、金翁道士から医術を学び、道士の娘と結婚。明の太祖の皇后の難産を助け,その功により安国公に封じられる
1370 3月、明太祖が倭寇の取り締まりを求めるため、三度日本に使節を派遣、使者趙佚の説得により、翌年懐良親王は僧祖来を明に派遣し、明人70余人を送還
福建莆田県から来朝した雕工の兪良甫が『月江和尚語録』を開版(以後、25年にわたり私財を費やして多数の禅籍・漢籍を開版)
1371 春屋妙葩が元から来朝した雕工を使い『宗鏡録』100巻を覆刻(このころ、入元僧が伝えた禅籍の覆刻が盛んに行われる)
1373 5月、明太祖が帰国する祖来とともに仲猷祖闡と無逸克勤を派遣、翌月、征西府に阻まれることなく京都で幕府と交渉に当たる
1378
永和4
天授4
  竹田昌慶、明から医書,銅人形などをたずさえて帰国。足利義満の侍医となる
1379
永和5
天授5
  馬島清眼没(馬島流眼科の祖、日本眼科専門医家の嚆矢)
1380   竹田昌慶、法印に叙せられる(医師竹田家の祖、竹田明室
1392 李氏朝鮮 室町時代
李成桂が王位を簒奪し、李氏朝鮮を建国
10月、南朝の後亀山天皇が北朝第6代の小松天皇に譲位(南北合一
1401 足利義満が明に正使祖阿、副使肥富を派遣
1402 明の惠帝が祖阿らの帰朝の際、僧道彛天倫一庵一如を日本に派遣
1403 2月、足利義満が明使の帰国の際、堅中圭密を正使、梵雲明空の2僧と通事徐本元を明に派遣
1404 明の成祖が圭密らの帰国の際、日本に居任らの使節を派遣、勘合貿易に関する条約(永楽条約)が締結され、7月、足利義満が僧明室梵亮らを明に派遣(第一期勘合貿易
1411 2月、明の成祖が使節王進を日本に派遣するが、足利義持は使節の入京を拒否
1412 竹田善慶が後小松天皇の病を治し、法眼に叙せられる
1415
応永22
坂士仏さか しぶつ没(1327-1415 北朝の歴代天皇や将軍足利義詮・義満・義持らの治療に当たり、民部卿法印に任ぜられた)
1419 6月、明の成祖が使節呂淵を日本に派遣するが、足利義持は使節の入京を拒否(以後、10年にわたり日明の通交断絶)
1421 竹田善慶が法印に叙せられ、治部卿に任ぜられる(竹田善祐
1433 6月、足利義教が派遣した天龍寺の僧龍室道淵(寧波出身)を正使とする使節が北京に到着、明との通交再開(第二期勘合貿易
1453
享徳2
  僧医月湖が渡明(号は潤徳斎。銭塘で医を行ない、著書に『全九集』『済陰方』がある)
1467










戦国時代











5月、応仁の乱が起る
雪舟
が乗った第4次遣明船が明に到着
第4次遣明使の通事が、もと寧波の者で、幼少の時倭寇に拉致され、日本に売られたことを語る(『明史』日本伝)
1468 竹田定盛(昭慶)、将軍足利義政の病を治し、法印に叙せられる(謡曲「善界」の作者)
1473 桂庵玄樹が帰朝、明で学んだ朱子学の普及に努め、薩南学派の祖となる
1487
長享元年
田代三喜(導道の誤りか?)が明に渡り、僧医月湖に師事し、金元代の李東垣,朱丹渓の医方を学ぶ
1492 コロンブスが西インド諸島に到達(コロンブス交換により梅毒がヨーロッパに伝わる)
1494 ナポリで梅毒が大流行
1496

3月、第7次遣明使の一行が山東省済寧で人を殺す(済寧事件
1498
明応7年
田代三喜が明より帰国、宋の局方の学に変えて、金・元代の李東垣・朱震亨の学を唱導
1505 弘治年間(1488-1505)、悪瘡を患う者が広東人より始まる(兪弁『続医説』巻10、中国初の梅毒症例)
1508 坂浄運が曾祖父坂浄秀の『鴻宝秘要抄』を増補した『続添鴻宝秘要抄』を出版(浄運は明応年間(1492-1501)明に渡り、張仲景の『傷寒論』を学び、帰国後は足利義政や後柏原天皇の侍医となり、治部卿法印に叙せられた)
1512
永正9
日本で唐瘡琉球瘡が流行(日本初の梅毒症例)
1513 6月、伊勢松坂の五郎太夫祥瑞が帰朝、明で学んだ染付陶器の技法を伝える
1523 大内義興の正使謙道宗設は、後から到着した細川高国の正使鸞岡瑞佐と明人宋素卿が寧波の市舶司に賄賂を贈り,上位の待遇をえたことに憤激し、瑞佐を殺害、宋素卿を追って寧波の沿道で放火狼藉を行う(寧波の乱
1531
享禄4
田代三喜が足利学校に在籍していた曲直瀬道三と出会い、李・朱学派の医を伝える
1537
天文6
2月、田代三喜没(日本における李・朱学派の開祖となる)
1539 吉田宗桂(意安)が使僧策彦に従って明に渡る
1540 王直が浙江総督朱紈の取締りを逃れ、五島列島に移る
1542 王直松浦隆信の招きで、平戸に移る
1543 8月、王直(五峯)がポルトガル人とともに種子島に漂着(鉄砲伝来
1546
天文15
曲直瀬道三が京にもどり、田代三喜に学んだ李・朱医学を唱導し、天下の医風を一変させる
1547 4月、和気明親(半井明親)没(明親は永正年間(1504-21)に明に渡り、正徳帝の疾患の治療に関わったという)
1550 ポルトガルの商船が平戸に来航
1556 浙江総督の胡宗憲王直を召還するため、寧波の諸生蒋洲、陳可願を豊後の大友義鎮のもとに派遣
1557 ポルトガル人の商人で医師のルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida 1525-1583)が大友宗麟から豊後の地(大分県大分市)をもらいうけ、西洋式病院を開設(西洋医術の発祥)
1558 アルメイダが豊後の地に医学校を開設(日本初の西洋式医学校)
1568
永禄11
安土桃山時代 織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛
1569
永禄12
京都四条坊門姥柳町にイエズス会が南蛮寺を建立し、医療活動を行う
1571
元亀2
曲直瀬道三(1507-1594)が『啓迪集』を著す(仏典の説を排除)
1581
天正9
鷹取秀次(通称甚右衛門尉)が『外療新明集』3巻を著す(鷹取流外科の祖)
1585
天平13
疫病が流行、施薬院全宗が秀吉に願い出て2回にわたり施薬救療を行う
1587
天正15
豊臣秀吉が筑前箱崎(福岡県福岡市東区)でバテレン追放令を出す
1588
天正16
京都南蛮寺で治療を受け、医師となった市橋庄助島田清庵が、粟田口で処刑される
1592 3月、豊臣秀吉が16万の軍を朝鮮に派兵することを決め、4月、宗義智と小西行長の率いる第一軍が釜山に上陸(文禄の役
1598 2月、秀吉が朝鮮南四道を奪うため、再び14万の軍を朝鮮に派兵(慶長の役
8月、秀吉が死去し、11月、島津氏の撤兵を最後として、朝鮮出兵が終了
1600 吉田宗桂(意安)がが使僧策彦に従って再び明に渡る
施薬院全宗没(丹波氏の出身、曲直瀬道三に医を学ぶ、天正年間に施薬院使に任命され、江戸時代には施薬院氏が同使を世襲、幕府の奥医師となった曲直瀬玄朔とともに曲直瀬一門として江戸時代の医療界を主導)
1603 江戸時代
2月、徳川家康が江戸に幕府を開く
家康が小笠原爲宗を初代の長崎奉行に任命
1604 明人馮六を唐通事に任命(唐通事林長右衛門の祖)
1624 鄭成功が平戸に生まれる(父は鄭芝龍、母は日本人田川氏の娘)
長崎に来航する南京船の船主らが海上往来の平安を祈願し、興福寺を創建(南京寺)
1627 馬栄宇を唐通事に任命(中山太郎兵衛の祖)
陳明德が長崎に渡り、穎川入德と名を改めて医業を行う
1628 長崎に来航する福建省漳州船の船主らが、陳冲一(唐通事穎川藤右衛門家の祖)を檀越の頭人として福済寺を創建(漳州寺)
1629 長崎に来航する福建省福州船の船主らが、林楚玉(唐通事林仁兵衛家の祖)を檀越の頭人として崇福寺を創建(福州寺)
1630 陳九官を唐通事に任命(穎川官兵衛の祖)
1631
寛永8
曲直瀬玄朔没(曲直瀬道三の妹の子、道三の養嗣子となり、2代目道三を襲名して、朝廷と幕府の典医として仕えた)
1635 幕府が対外貿易港を長崎一港に制限
長崎在住の明人の裁判を行うために、欧陽雲台、何三官、江七官、張三官、何八官、陳奕山の六人を年行事に任命
1638   長崎の権現山山頂に野母遠見番所を設置
1644     明が滅亡
1645 唐王に仕えた崔芝が日本に使節を派遣し、援軍を請う(日本乞師
1650
慶安3
クリストヴァン・フェレイラ沢野忠庵 1580?-1650)没(娘婿の杉本忠恵など多くの門人に西洋医学を伝えた、その所伝書に『南蛮流外科秘伝』がある)
1654 7月、隠元隆琦が長崎に渡来
1659 隠元隆琦が宇治に寺地を与えられ、黄檗山萬福寺を創建
朱舜水が長崎に7度目の渡来
1661 鄭氏政権 鄭成功がオランダ人が拠っていたゼーランディア城を落とし、台湾に鄭氏政権を建てる
1665 7月、朱舜水が徳川光圀に招かれ、水戸藩の江戸藩邸に到着
1682 4月、朱舜水
1683
鄭克塽が清軍に降伏、台湾の鄭氏政権が消滅
1685 長崎での貿易の総額に制限を設ける
1688 8月、長崎に来航する船数に制限を設ける
1689 4月、唐人屋敷が開設
琉球の高嶺徳明(注合名魏士哲)が、福建省の医師・黄会友から口唇裂の補唇手術を学び、琉球王尚貞の孫尚益(のち第二尚氏王期12代王)の補唇手術に成功
1701 3月、北山道長(字は寿安、号は友松)没(唐通事馬栄宇の子、大坂で医業を行い、多くの著述を残した)
1709 新井白石が幕府に外国貿易に関する建言を上書
1715 新井白石の建議に基づき、清船は30隻、貿易銀高6000貫、オランダ船は2隻、貿易銀高3000貫に制限し、信牌の制を設ける(海舶互市新例
1716 長崎の聖堂に唐韻勤学会を設置
岡本一抱没(後世派の医師味岡三伯に医学を学び、大和国宇陀松山藩主・織田家の侍医を務める一方、一般の庶民にも読みやすい医書の諺解や講義録を数多く出版し、後世派を大成。兄に近松門左衛門がいる)
1720 伊孚九が幕府の要請で良馬2匹を届けるため来日、南宗画に秀で、池大雅、与謝蕪村らに影響を与える
1721 6月、蘇州の医師陳振先が来崎、近郷の山野を跋渉し、薬草162種を集めて効能書を作る
1722 深見玄岱(高天漪)没(唐通事高大誦の子、黄檗僧独立性易に学んで儒学、書道、医学に通じ、新井白石の推挙で幕府儒官となった)
1725 2月、福建汀州府の医師朱子章が来崎、
1731 12月、西洋画の影響を受けて発達した写生画の大家沈南蘋が来日、日本に南蘋派と呼ばれる写生画が起こり、円山応挙らに影響を与える
1803 医師胡兆新が来崎、大田南畝が幕命により薬方を学ぶ
   
   
1868 明治時代 1月、王政復古の大号令が発せられる(明治維新)
   
   
   
   
   
   
1894 8月、日本が清国に宣戦布告(日清戦争
1895







4月、日清講和条約調印、台湾・澎湖諸島が日本に割譲される
1897 大韓帝国 10月、朝鮮国王である高宗が皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改める
   
1910   8月、「韓国併合ニ関スル条約」に基づき日本が韓国を統治下に置く(日韓併合
1912

中華民国


大正時代


中華民国が建国
   
  昭和時代
 
   
   
   
1945          
           
       
       
           
       

参考資料

  1. 北京中医学院主編・夏三郎訳『中国医学史講義』(燎原 1974年)→国立国会図書館デジタルコレクション
  2. 遠藤次郎・中村輝子「導道・三喜別人説の検討」(日本医史学雑誌第44号 1998年12月)→国立国会図書館デジタルコレクション
 
 
 

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